『危険な女たち』['85]
監督 野村芳太郎

 怪優の域に足を踏み入れる前の大竹しのぶは、やはり凄いと改めて思った。紀子(大竹しのぶ)が家に訪ねてきた冴子(池上季実子)と対峙する場面、紀子が冴子の家に訪ねて行って対峙する場面、いずれにおいても、新たな気付きを得て、千々に乱れ揺れ動く感情を内に秘めての表情の変化が見事だった。

 前者では、夫の秀雄(寺尾聰)が橘まゆみ(藤真利子)よりも遥かに深く愛していたのが身近な存在の冴子だったことに気づき、後者では、夫の英雄がダイイングメッセージとして残した視線の持つ意味について冴子から知らされたことによる気づきだったけれども、紀子の選択に納得感をもたらしてくれているように感じた。

 だから、中原中也の愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。だったのか、と得心するとともに、書棚にある『中也のうた(中村稔編著)』<教養文庫>にて、中村が中原中也の詩の出発を、かりに「寒い夜の自画像」に認めるとすれば、「春日狂想」にその到達点をみるべきであろう。P242)と述べている詩の一節が、映画作品のタイトルに原作者を前面に打ち出していた原作のなかにあるはずもなく、これこそは最後の場面でミステリー小説作家の枇杷坂(石坂浩二)が事件を小説化したものの、自分の書いた結末が気に入らないと言って冴子宅を訪ねてきた台詞そのままに、作り手が原作の結末が気に入らなくて、脚本を担った竹内銃一郎・古田求が脚色を加えたことの証左ではないかという気がした。

 そこで未読の原作である『ホロー荘の殺人』(アガサ・クリスティ著)を調べてみたら、案の定、自殺ではなかったことにほくそ笑んだ。だが、そうなると残された子供はどうなる?という結末に対して、モデルガンの改造なんぞをするからだという自業自得へと突き放した感じがあって、それをも以て「危険な女たち」とするのもなぁとの憾みが残った気がする。

 また、釣り好きは岡釣りも上手なんだとの冗句が挟まれていた秀雄が十年ぶりに再会した元恋人から迫られて易々と愉しんだ後、院長夫人のハナ(北林谷栄)が香水のきつさに眉をひそめていた、まゆみの移り香に頓着なく紀子を抱擁したり、冴子に想いを寄せていた弘(三田村邦彦)に冴子とのキスを目撃されるような迂闊な不用意さが、とても岡釣り上手には思えない脇の甘さだったが、それは、腕のいい医師で二枚目だとされる秀雄がモテ男ではあっても、決して女遊びの上手な浮気者ではなかったからなのかもしれない。

 彼がダイイングメッセージとして残した視線の重みを言うのならば、そうしておいたほうが辻褄が合っているような気はする。とはいえ、流石に移り香への無頓着は余りに迂闊すぎると呆れてしまった。

 すると、高校時分の映画部長がだいぶ前に観たけど、ミステリーがちゃんの成り立ってなくて、変に無理やり感があった作品だったように思った。脚本がダメだったのかねぇ?とコメントを寄せてくれた。確かにミステリーとして観ると、不満な点は多々出てくるような気がしなくもない。だが、紀子、まゆみ、冴子、美智子の秀雄と弘を巡る関係のサスペンスとしては、けっこう面白く観られたように思う。部長は、探偵役の推理小説作家が石坂浩二であることに対してこれがまた犯人が分かり、彼女がコーヒーに入れた毒で自殺した時に「しまった」と「犬神家」の金田一と同じセリフと失態をするのは、パロディならば笑えますが、真剣にやっていて失笑とも書いていたが、これについては配役からして紛うことなきパロディだと僕は思った。脚本の竹内は演劇畑でよく知られた人で、中原中也を持ってきたところからして瞠目した僕は、ミステリーとして観なかったからか、かなり面白く観た。

 ちなみに引用されていた「春日狂想」は3章のうちの第1章まるまるだった。冴子が呟いているなかに弘が加わり継ぐ形になっていた。

愛するものが死んだ時には、
 自殺しなけあなりません。

 愛するものが死んだ時には、
 それより他に、方法がない。

 けれどもそれでも、業(?)が深くて、
 なほもながらふことともなつたら、

 奉仕の気持に、なることなんです。
 奉仕の気持に、なることなんです。

 愛するものは、死んだのですから、
 たしかにそれは、死んだのですから、

 もはやどうにも、ならぬのですから、
 そのもののために、そのもののために、

 奉仕の気持に、ならなけあならない。
 奉仕の気持に、ならなけあならない。

  (『中也のうた』<教養文庫>P242~P243
by ヤマ

'25.11.30. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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