『平場の月』['25]
監督 土井裕泰

 冒頭もラストも飾るメイン・テーマは、原作小説のほうにも出てくるのだろうか。きっとないように思う。愛ってよくわからないけど傷つく感じが素敵の部分が欠かさず歌われていたように思うけれど、肝心なのは笑っちゃう 涙の止め方も知らない 20年も生きてきたのにねのほうなのだろう。いわんや50年というわけだ。釈然としない人物造形の須藤葉子と青砥だったけれど、演じた井川遥と堺雅人の佇まいが抜群に好かった。ぼそぼそとしか声の出なくなっている塩見三省の演じる居酒屋“酔いしょ”の大将も好かった。

 2025年12月って来月じゃないか、近未来もの?と思いながら観始めたが、なるほどそういうことなのねと、それには納得した2024年の12月。まるでデリカシーがない事で衆目の一致する江口(大森南朋)と違ってデリカシーに富んだ青砥が、ピースサインが中折れした葉子の胸中に気づかぬはずがないじゃないかと思わずにいられなかった。

 青砥は葉子の言った夢みたいなことの中味をきっと察しているだろうし、葉子は青砥の“二股掛けていた同棲相手の話”が作り話に決まっていることを、きっと察しているに違いない。そんな二人にあの2024年12月はないだろうと心外だった。葉子が語った略奪婚や夫の死後に若い美容師に入れあげたことが作り話ではないのを見せて対照させるために登場していたとしか思えない鎌田(成田凌)が、中途半端にまとまった金を持ってきていた。老後資金ばかりか家まで処分させるような、青砥の言う“クズ”が何ゆえそんなことをしに現れるのかと言えば、葉子の話が嘘ではないことの証人以外に考えられない作劇上の必要性からの運びだった気がする。また、青砥に青砥さんが初恋の君だと姉さんが言っていたと明かし、姉のことをよろしく頼むと言っていた妹の道子(中村ゆり)が迷いながらも知らせなかったというのも妙に言い訳がましく、釈然としなかった。

 何よりも釈然としないのは、あの境遇から立教大学を出て証券会社に就職もしていた芯の“太い”葉子が、こと恋愛にかけては、ある種、見境のなくなるようなのめりこみ方をするのに、青砥に対してだけは、変に頑なになってしまうことだった。中学のときなら解らぬではないものの、その中学のときに既に、ロマンチックな海や空気の澄んだ山ではなく平場の満月とともに夜を明かすあまりに青春すぎる思い出を共有しているのに「夢みたいなこと」を自ら遠ざけようとする意固地さが不自然に思えて仕方がなかった。
by ヤマ

'25.11.24. TOHOシネマズ5



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