『俺ではない炎上』['25]
監督 山田篤宏

 前日に観た私がやりました』の感想メモにはビジウヨのようなインプレ稼ぎに踊らされた、只の伝聞と調査報道の区別もつかないネット民たちと記したうえで1935年という時点を借りることでカリカチュアライズして現出させていたと思う。と結んでいたが、本作はストレートにネット警察の愚劣と「そんなつもりじゃなかった」などとは言わせない匿名者の悪意を炙り出しつつ、それを“正義”と呼ぶ狂気を描いてなかなかアクチュアルな作品だったことに感心した。

 それにしても、この無責任な破廉恥が蔓延する社会状況は、一体どこまでいくのだろう。昨今は、公人が責任を取って謝罪し辞任することがまるでなくなり、「私は知らない」「私の責任ではない」「私は悪くない」と公言する場面が余りに多い。僕が十代の時分、「日本人の悪い癖はすぐに謝ることだ。交通事故など100対0で全責任があることなど絶対にないのだから、先に謝ったほうが負けだ。」と是非ではなく勝負だというふうに、対処の観点をすり替えた論調が幅を利かせ始めたことに驚き、呆れたことを思い出した。その延長線上に今の社会があるような気がしてならない。株価と同じように高下しつつも、どんどん破廉恥の史上最高値を更新していくのかと思うと、ぞっとしてくる。

 最後の場面で、家族三人、山縣泰介(阿部寛)と妻の芙由子(夏川結衣)、娘の夏美とが揃って自分が悪かったと詫びていた姿が印象深い。政治家と秘書と会計責任者が揃って互いに「私が悪かった」と言い合う場面が、例えば病室のように閉ざされた空間だとあったりするのだろうか。あり得ない気がする。そしてそれは政治家連中だけの問題ではない。

 また、本作で効果的に使われていた“言葉遣い”へのこだわりが僕のような年齢にある者には共感的に響いてきた。一番悪いのはもちろん犯人よ。次はアカウントを作った私。でも、(インフルエンサーの)貴男が拡散しなければ、こんなことにはならなかった。とサクラ(芦田愛菜)が住吉初羽馬(藤原大祐)につきつけ、彼に「僕は悪くない」と言わせていた台詞に即して言えば、最も罪深い初羽馬に当たるのが、言葉から言霊を奪い、本義を無視して軽薄に煽り立てる空疎な刺激語として使うことを流布してきたテレビメディアであり、コピーライターたちであることを、その過程を同時代的に目撃してきた僕は実感している。素朴で真摯な「悪かった」に宿っている言霊が絶滅したりはしないことを願うばかりだ。
by ヤマ

'25.10. 4. TOHOシネマズ5




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