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『でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男』['25] | |||||
監督 三池崇史 | |||||
実際に起こった出来事を題材にしているわけだが、薮下先生(綾野剛)を陥れた氷室律子(柴咲コウ)の些か芝居がかったタフな人物造形の怖さと550人もの弁護士が徒党を組み名を連ねながら、彼女の詐称行為に誰一人気づかなかった現実に暗澹たる思いが湧いた。自分が追い込んで子供に付かせたような嘘を「事実化」することで彼女が得ようとしていた自己防衛に比して、薮下先生が失い傷つけられたものの大きさ重さが余りに痛ましく感じられた。それとともに、事情もよく知らない者が安易な加担によって個人攻撃を加えることやそれを促し煽る行為の罪深さというものを改めて感じた。 当事者でなければ分からないことと同時に、当事者なればこそ見えなくなるものがきちんと描かれていたことが目を惹く。突飛な出来事に見舞われた人々の真実が、盆暗な日常を過ごしている者の想像域を遥かに超えるのは極めて当然のことであり、ろくに事象にも当たらない無責任な言辞や報道がどれだけ的外れなものであるのかが、とてもよく判る内容になっていたように思う。 事実とは異なる“血の話”が律子自身にとっては真実であったのか、薮下攻撃のための便法だったのか判然としていないところに含みがあって、血縁の有無を証するものとして戸籍が全幅の信頼を寄せられるものでもない点に対して、DNA鑑定などの補足がされていないことに蟠りを覚えつつも、律子の虚言であるとの指摘に対する抗弁を原告が行わなければ、被告側が原告側に鑑定を求めることなどできないのは当然のことだとも思う。 ある意味、常にある種の利害に晒されるのが宿命でもある“医学的所見”なるものの杜撰さというのは、なにも本作によって初めて指摘されるような事柄ではなく、弁護士同様に“すべては患者さん(クライアント)のために”を当然視するような「専門家」が蔓延っているのだろう。弁護士にしても医師にしても、本当のところなど判りはしないなかで、クライアントのために何を何処まで出来るかのを見極めることが、得られた証拠に対する評価に掛かる専門性というべき職業なのだろう。彼らとて真実に対する追求姿勢に基づいて行動しているわけではないということだ。 それらを踏まえたうえで、律子の虚言癖を聞きつけたであろう湯上谷弁護士(小林薫)が準備した戸籍謄本の一方で、律子の母の営む場末のスナックを映し出し、養育放棄を常としていて幼い律子がいつもひもじい思いをしていた姿と合わせて、工場勤めだった時分の薮下が教師を志す契機になった子供たちとの関わりのなかで示されていた、大人の側の婚姻外性交の常態を描いていたところに感心した。2003年5月12日の家庭訪問時に四十過ぎならば、律子の生年は、'60年頃になるからもはや占領下ではないけれども、都内に広大な米軍基地を抱えるような我が国にあって、非占領下ではあっても律子が己が出生に懐疑を抱くような出来事はあってもおかしくはない。実際の事件において、その真実が如何なるものであったかはともかく、映画化作品においてそのような描き方をするのは、薮下先生の息子があれだけの目に遭っていながらなお父親と同じ教師の道を志す姿を描くのと同様に、事実関係とは別物の映画化作品として、作り手による真っ当な設えだと思わずにいられなかった。 折しも、この事件の起こった頃から酷くなってきている教員志望の減少傾向について、新聞紙面で「教員の志願減深刻 自治体は切望」「国立大 教育学部「復活」の波」「激務で敬遠? 教員就職率は6割」との見出しを目にした。記事によれば、かつては各都道府県に一つは置くのが原則だったものが '01年に文科省が教員養成機関の再編方針を示して変わっていたらしい。だが、一番の原因は、教育学部を減らしたことや見出しにある教員の激務ではなく、メディアによる過剰なまでの不祥事教員制裁報道やその空気に乗じたかのようなモンスターペアレンツの出現、それに対する教育委員会や学校側の対応状況が大きく影響を及ぼしている気がする。まさしく本作で、段田校長(光石研)・都築教頭(大倉孝二)・藤野教育長(峯村リエ)が担い、痛烈な人物造形とともに描かれていた部分だ。 | |||||
by ヤマ '25. 7.23. TOHOシネマズ3 | |||||
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