『夏の砂の上』['25]
監督 玉田真也

 “夏の砂の上”も相当に熱いが、Hot Tin Roofの上と、どちらのほうがより辛いのだろう。四十年前に観たっきりの『熱いトタン屋根の猫』['58]のマギー(エリザベス・テイラー)のような思惑で、小浦恵子(松たか子)が、夫の治(オダギリ・ジョー)を慕っている陣野(森山直太朗)に近づいたのではなかろうが、森山の演じる陣野には、何処かバイセクの佇まいがあるような気がした。だが、恵子は熱いトタン屋根の猫のようには映らず、夏の砂の上の犬に見えたのは治のほうだった気がする。そして、マギーに重なるのは、持田(光石研)の葬儀で取り乱していた陣野の妻(篠原ゆき子)だったように思う。

 ある種の苛立ちというものが絶えず自身を苛む“居心地の悪さ”ないしは“居場所の無さ”に治同様に苦しんでいたのが、髙石あかりの演じる中卒少女の川上優子だった。彼女がバイトの先輩だった大学生の立山(高橋文哉)から自宅での夕食に招かれ、泣きながら伯父の治の家に帰って来ていた姿が印象深い。立山の母親がもてなしてくれたハンバーグも食べられずに逃げ帰ってきた彼女の若さだと、おそらくは、舐め合う疵ひとつない立山の境遇との差に傷つき、いたたまれなくなったのだろう。何もかも失くしている伯父の治といると辛くならずに済むのに、立山といると辛くなる我が身に涙していた気がしてならなかった。

 鏡の破片のつけた傷なら、たとえ残しておきたくても自然に治癒してしまうのに、自身の心に刻まれている傷はそうはならないことにも慣れっこになっていたはずのものが、立山の家に招かれたことで一気に噴出してしまったのだろう。身体を舐め合っても心の傷は舐め合えない関係であることを思い知ったのであろう優子の身の置き所の無さは、若い立山には推し量り得ないものに違いない。

 治と優子の抱える傷と喪失、そして渇きが痛切だった。106cmの背の丈を柱の傷に残した息子を五歳で失い、技量に自負のある溶接の仕事を失い、それらの影響もおそらくはあってのものであろう形で妻をも失ったうえに、左手の指三本まで失うことになっていた治の人生の過酷さは、夏の砂の上どころではない気がした。子供も仕事も妻も一度も失わずに六人の孫持ちになった僕には想像も及ばない。

 だが、妹(満島ひかり)が一方的に連れて来て一方的に連れ去った姪の優子が彼に残したものは、雨水を受けて飲む水の美味さに留まらない“心の渇き”を癒すものだったような気がした。そして、それは優子にとっても掛け替えのないものとして遺ったに違いない。とても行間の豊かな映画だったような気がする。
by ヤマ

'25. 7.12. TOHOシネマズ3



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