『本心』
監督 石井裕也

 確と「触れられない」がキーワードの作品だったように思う。自身のものでも時として確信が持てない“人の本心”なるものに、さして拘りや囚われを僕が抱かなくなったのは、いつ頃からだったろう。少なくとも二十歳前後には、本心よりも重要なものとして、言語化の如何によらず表明された意思を前提に置くことにしたような覚えがある。

 困ってしまうのは表明をキャッチできていない場合なのだが、どうせ本心になど触れられないのだから、当てずっぽうの仮説に則って作用を施して返って来る反作用を引き出すしかないように思っていた記憶がある。だが、亡くなってしまうと反作用の引き出しすらできなくなるので、致し方ないのだが、仮にAIによる精巧なヴァーチャル・フィギュア【VF】なるものを生成できたとして、およそ信を置けないような気がするものの、映画で示されたような形でのヴァーチャル・リアリティに接すると思いのほか強い影響を受けそうな気がしなくもない。

 過去のトラウマで「人に触れること」ができなくなっていると言っていた三好彩花(三吉彩花)が石川朔也(池松壮亮)の“本心”を質したうえで、彼の表明した意思を前提にイフィーこと鈴木流以(仲野太賀)の元に赴き、彼からの手の甲への口づけに必死に耐えていた場面が印象深かった。人から触れられることに耐えられないと言っていた彼女の言葉に対して「嘘だった」と言ってしまう朔也の姿に、彼のことを最も長く近くで知っていたはずの岸谷(水上恒司)の思い込みに重なるものを感じた。人と人との関係に普遍的に起こってしまう事々だと思う。

 そのうえで、映画作品がかなり明瞭に朔也の母(田中裕子)は自由死などではなく、黒猫のもたらした事故死であることを偲ばせていたのが目を惹いた。嵐のなかで迷い猫を探していて川に落ちたような顛末を偲ばせる場面があったように思うのだが、原作小説ではきっと違っているのではないかという気がする。

 また、池松壮亮、田中裕子といった名にし負う演技巧者と五分に伍していた感のある三吉彩花に感心した。少々あざとくはあるけれども素敵だった彩花と朔也のダンス場面に比して、赤い糸ならぬ黒い糸で結ばれているかの如き誰かの手が現われたラストカットは、作り手の思わせぶりな悪癖のような気がして残念だったが、いい映画だったように思う。

 すると旧くからの映友が若くして悟っていたんやねぇとのコメントを寄せてくれたので、高校時分に友人たちから若年寄と言われていたと返した。どうも小学時分に手に入れた「下手な考え休むに似たり」という言葉が意外と強い影響を及ぼしていて、分かるはずのないものに煩わされ、囚われることを早い時期からしなくなったような気がする。だから、高校時分に「悩みが無いことが悩みや」などと嘯きつつ、僕よりも物事をあまり考えそうにない連中に、悩みなどあろうはずがないというつもりで訊ねてみると、ほぼ全員から悩みがあるとの回答を得て、少々動揺した覚えがある。悩みなどという高尚なものを彼らでも持っているのかと吃驚したことを思い出したりした。
by ヤマ

'24. 1. 2. キネマM



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