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『お母さんが一緒』 | |||||
監督・脚色 橋口亮輔 | |||||
先ごろ監督作の『映画○月○日、区長になる女。』を観たばかりのペヤンヌマキが原作・脚本を担い、口撃における女性的容赦なさについて、まさに女性的容赦なさを遺憾なく発揮して描出した作品だったような気がする。それを観ながら、この一方的で没論理で飛躍する(要は「話にならない」)手に負えない始末の悪さを観て、女性客が「これこそまさに女性そのものなのよねぇと素直に笑える方」と「私もそんなパワースポットの水があるなら欲しいと苦笑する方」と「いるいる、こういう女性たち、私は違うけどと思う方」と「こういう女性ばかりじゃないのにと不満を抱く方」と「女性をこのように描くから偏見を助長すると憤慨する方」とで、どのように分かれるのか、統計調査をやってもらいたいような気になった。 自らのことは棚に上げて母親について「受け入れる間口が狭い」と評していたのは、長女の弥生(江口のりこ)だったが、居並ぶ三姉妹のなかでも圧巻の存在だった。「女心と秋の空」という言葉は、こういう光景から生まれるのだろうなと改めて思う。 興奮した女性の発する言葉は、感情表出の方便であって「意味」ではないから、真に受ける必要がないというか真に受けるべきではないと感得していると思しきタカヒロ(青山フォール勝ち)の存在がなかなか効いていて、彼が清美(古川琴音)を安堵させた「何だっけ、覚えてない」という言葉にしても、言葉どおりのものではないはずなのだが、言葉は言葉尻に囚われてはいけない即ち言葉だけで真に受けてはいけないものであることにおいて男女に違いはないことを示していたようにも思えて感心した。大事なのは真意を解することなのだ。 そういう言葉を口にできる優しくデリカシーに富んだタカヒロの振る舞いのほうは、いかにも女性たちがそれこそ「デリカシーがない、鈍感ねぇ」と非難しがちな事々に造形してある点がまた心憎いのだが、タカヒロのデリカシーをこういう形で描いたのは、脚色の橋口亮輔と原作・脚本のペヤンヌマキのいずれに負うところが大きかったのだろう。 三姉妹のなかでも母姉に最も振り回され、まさに梯子外され捲りで取っ散らかっていた“片付けられない女(きちんとできない女)”である、不倫も含めた恋愛遍歴を重ねている次女の愛美(内田慈)が最も気の毒な気がした。三人姉妹の真ん中というポジションの宿命のようでもあった。 タイトルが「お母さんと一緒」ではなく『お母さんが一緒』になっているのは、主語というか主役は、あくまでもお母さんだという作り手の意思の表明なのだろう。姿も声も一度たりとも出て来なかったところには『桐島、部活やめるってよ』['12]の桐島を思い出した。 それにしても、江口のりこ、このところ『あまろっく』『愛に乱暴』と立て続けに観たけれども、ただいま絶好調という感じだ。 | |||||
by ヤマ '24.11.14. キネマM | |||||
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