『ふたりで終わらせる』(It Ends With Us)
監督 ジャスティン・バルドーニ

 なかなか奥行きのある作品で大いに感心した。市長だった父親の葬儀に際して母から言われた父親の好きなところ5つが一つも浮かばなくて、弔辞も述べられずに教会を逃げ出していたリリー・ブロッサム・ブルーム(ブレイク・ライヴリー)が、自ら父親の墓前に向かい花を手向けることができるようになるうえでは、裕福な脳神経外科医で二枚目のモテ男ライル・キンケイド(ジャスティン・バルドーニ)との出会いが非常に大きな意味を持っていたという映画だったように思う。

 妹としては兄を許してほしいけれど、親友としては別れないなら二度と口を利かないとリリーに言い放って支援するアリサ(ジェニー・スレイト)の人物像がなかなか好くて、怒りの感情さえ抱かなければ、極めて自制的で洒落た男でありながらも、激してしまうと見境なくなるライルの人物造形に納得感があり、感心した。神を呪うほかないようなやり場も逃れようもない憤りを熾火のように抱えているからこそ、発火点としての怒りの感情が湧いてしまうと、自制しようにも自制できない状態になるということなのだろう。六歳にして兄殺しの十字架を負うことになった境遇における苦衷など、おいそれとは思いも及ばないが、銃社会に対する恨みは払拭できない気がしてならない。娘にライルの兄エマーソンの名をつけたリリーは、そこのところを深く解すればこそ、そうしたのであり、さればこそ、ライルも最高の贈り物だと感涙を見せるのだろう。そして、その姿に亡父もまた夫ライルと同じような火種を抱えていたに違いないと思えるようになったということだったような気がする。

 だからといって、亡父や夫が露わにした暴力性を許容し免罪することはできないわけで、自身の内から報復や不安を払い除けるためにも、アリサの助言に沿った選択をしたわけだが、人気花屋を営む自活力を得ていればこそ果たせるわけで、その力を持てなかった時代の母ジェニー(エイミー・モートン)との対比が効いていたように思う。リリーとジェニーとの異なる選択に対して女性たちは、どのように受け取るのか訊いてみたい気がした。とりわけジェニーが娘リリーに対して洩らしていた事はそんなに簡単じゃないの。私は夫を愛していたからといった趣旨の言葉をどのように受け取ったか伺いたい気持ちが湧いた。

 それにしても、原題にある「Us」は、本当に「ふたり」と解すべきなのだろうか。二人とするなら、リリーと母ジェニーなのか、リリーと夫ライルなのか、リリーと娘エミーなのか、はたまたリリーとアトラス(ブランドン・タイラー・スクリナー)なのか、いずれに受け取る人が多いのだろう。

 すると映友からやはり、「ふたり」が誰を指すのかが最後までスリリングに展開して特定するのは、観客に委ねたのだろうか? いや、邦題の付け方が映画の提示しているUSの意味をちゃんと捉えずに付けて、恋愛映画的に売ろうとしたのではないか?が真相のような気もする。とのコメントを寄せてくれた。後者に同意だ。事はそんなに簡単ではなかった。
by ヤマ

'24.11.27. TOHOシネマズ1



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