『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)['40]
監督 ジョン・フォード

 半年近く前に、映像の世紀バタフライエフェクトルート66 アメリカの夢と絶望を運んだ道を観て、ジャズのスタンダード曲のタイトルとして馴染みのある「ルート66」がシカゴとサンタモニカを結んだ国道の名称であることを知ったのは、比較的最近のことなのだが、こうしてアメリカの歴史のなかでエピソードを添えられると、一際、興味が湧いてくる。ウディ・ガスリーの歌っていた曲は、ピーター、ポール&マリーの歌唱のものをレコードで持っているし、若かりし頃のお気に入り曲でもあった。 『俺たちに明日はない』『怒りの葡萄』『イージーライダー』などの映画も登場した。フォンダ父子の対照を添えて紹介されたピーターのイージーライダーは、四十年前に観たっきりだが、ニューシネマのなかでも最も気に入っている映画だ。 ヘンリーの『怒りの葡萄』は未見のままなので、宿題を片付けておきたくなった。 核実験がラスベガスの観光資源になっていて、核爆発の威容を遠目に見物するアトミック・パーティーが開催され、アトミック・カクテルなるものが提供されて、歌にもなっていたとは知らなかった。と記していたら、高校時分の映画部長が貸してくれたものだ。

 ジョン・スタインベックによる原作小説は名のみぞ知る未読作品ながらも、アメリカ人でもないのにRed River Valleyにも、Route 66にも昔から馴染みがあって耳にすると懐かしくさえあるのは、我が国がいかにアメリカ文化と親しんでいるかということなのだろう。だが、地主が力づくで求める農園からの立ち退きに抗っていたミューリーの言っていた「私の土地」というのは、紙切れなどで示されるものではなく、自分が生まれ働き死んでいく土地のことだというのは、本作の舞台となっていた世界恐慌に見舞われていた時代の我が国でも、アメリカ文化との親和性の如何によらず、普遍的に庶民のなかにあったものだろうという気がした。

 傷害沙汰の過剰防衛により人を殺めて服役し、仮出所してきたトム・ジョード(ヘンリー・フォンダ)が、自分たち労働者が進むべき道を示してくれる光だったと慕っていた元説教師で、神を語れなくなったとも言っていたケーシー(ジョン・キャラダイン)のものだとして、ママ・ジョード(ジェーン・ダーウェル)にトムが語っていた人の魂は、大きなひとつの魂の一部に過ぎない。万人の魂はひとつだ。との言葉が、現在の分断の時代にあってひときわ印象深く映って来た。

 この台詞が原作小説にもあるのかどうか知らないが、この言葉をたよりにトムがお尋ね者にもできることがあるかもしれないとして、母親に対して、人々の“怒りの房”を作ることに挑む意思を宣言している場面を観ながら、専ら共産主義と訳されるコミュニズムというのは、本来はこのコミューン主義であってコミューンすなわちコモンなるものへの自覚を人々に促し連帯する思想だったことを改めて思い出したような気にさせてくれた。

 古きを温めることの意義を再認識するような八十四年前のモノクロ映画の観賞だった。男は些細に拘り立ち止まるが、女は大きな生の流れに身を任せることができる。世の流れを変え、支えることができるのは、女のほうだというようなことを女は男より変わり身が早い。男は不器用でいちいち止まる…ところが女は流れる川でね、渦や滝もある。あっても止まらずに流れる。それが女の生き方よと夫に告げる台詞で示し、締め括っていたことに驚いた。太平洋戦争開戦前年の作品だ。

 貧しい一家が職を求めた移住の旅の途上で立ち寄った軽食堂に幼子の姉弟を連れて入ったパパ・ジョード(ラッセル・シンプソン)が15セントのパンが買えずにいる姿を見かねて店主が娘と思しき店員に売るよう促すと、ほっとしたように10セント分切ってくれと言った父親に昨日の売れ残りだからとまるごと渡し、棒菓子を欲しそうにしていた子供たちに2本で1セントだと言って売ったのを見て、本当の売値は1本5セントであることを知る常連客の労働者と思しき男が釣りは取っておけと言いながら勘定を済ませていく場面のある時代の作品だ。
by ヤマ

'24.11. 6. BD観賞



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