『裸足になって』(Houria)['22]
監督・脚本 ムニア・メドゥール

 ある意味、トレンディな題材を扱って、アルジェリアという珍しい土地を描いている興味深い作品なのだが、その語り口がどうも僕の性に合わず、いささか残念だった。観賞後、屋外掲示板に貼り出されていたプレスシートを眺めていると、どうも僕には鬼門のように感じられる“シスターフッド”なる言葉が散見され、語り口もさることながら、そのように語られがちな映画作品が肌に合わないのかもしれないと、あのこは貴族で交わした談義のことを思い起こしたりした。

 北アフリカのイスラム国家たるアルジェリアの事情について僕が疎いということも作用している気がするが、清掃婦のバイトをしながらバレエダンサーを夢みているフーリア(リナ・クードリ)の踊りが、かの『フラッシュダンス』のアレックスが溶接工をしながら続けていたようなショーダンスではなく、クラシック・バレエであり、母子家庭の母親サブリナ(ラシダ・ブラクニ)が指導者であったり、元テロリストが警察とグルになってやりたい放題という治安事情のなかで、暴漢に襲われダンサーにとって命とも言うべき足首を骨折したフーリアが、母子家庭の貧しき身で即座に手術と、長い時間が掛かると言われたリハビリを受けられる医療福祉の手厚さのアンバランスな感じがどうにもしっくりこなかった。男たちと言えば、ろくでなしか犯罪者しか登場しないアンバランスさも手伝ってか、せっかく“女たちの連帯”によって、フーリアが活きる力を取り戻し、仲間たちと見事なダンスを踊り上げるラストに至っても、カタルシスよりは、なんだかなぁとの思いが先に立つような作品だった気がする。

 闘犬ならぬ闘羊の賞金を巡って筋違いの恨みからフーリアに暴行を働いた元テロリストだとのアリ(マルワーン・ファレス)の顛末も実に不可解だった。彼女を襲って賞金と賭金を奪い取ったはずだと思ったら、そうではなかったようで、まるで間が抜けていた。しかも、警察との裏取引と思しき画策により出所した後、ちゃっかり郵便局の職員になっていて、フーリアの周囲にいる「壁修士・壁博士」たちのような失業者でもないのに、執念深く彼女をつけ狙い、家にまで押し入っていた。

 そして、闘羊をしていた羊の名が、その作為不作為によって今世紀の世界を混迷に陥れた元凶たる人物の名になっていたことも印象深い。並んでいたのは、トランプ、オバマ、ビンラディン、プーチン。ジョーカーの名が挙がっていたのは、バットマンへの言及からなのだろう。ホアキン・フェニックスが彼を演じたジョーカー['19]が影響を及ぼしている気がしてならなかったが、羊の名の付け方が妙にあざといように感じられた。

 加えて、アルジェリアを見限ってスペインへ脱出することが叶わず密出国して命を落とすソニア(アミラ・イルダ・ドゥアウダ)のエピソードも何処か取って付けたように感じられた。また、障碍者支援サービスとして、聾唖者とは異なる失語症を負った者が同様にケアを受けている姿というかなり珍しいと思われる事例を描いていることが目を惹いたのだが、身体性と心因性という違いを超えて受けられる支援サービスがアルジェリアには本当にあるのだろうかと思ったりした。
by ヤマ

'24. 1. 5. あたご劇場



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>