『リチャード・ジュエル』(Richard Jewell)['19]
監督 クリント・イーストウッド

 十四年ぶりにチェンジリング['08]を再見した際に、政治権力と結託した警察権力の横暴という点で百年前の事件の同作と、現代の事件を扱った十一年後の本作とが、一対を為す作品のように思ったので、予定していた順番を繰り上げて三年ぶりに再見してみた。

 公開時の観賞メモには映画としては勿論おもしろく観たのだけれど、実話ものとしては、このまんまだとすると、ショウFBI捜査官(ジョン・ハム)の余りに杜撰な捜査の悪意に満ちた暴走とキャシー記者(オリヴィア・ワイルド)の余りに安い手前味噌な報道にFBIとアトランタ・ジャーナルを始めとするメディアが失態を晒したことになるが、功名心というよりも保身と思い込みに囚われた職業人個人に集約される顛末で生じたことではなく、それぞれの組織の上層部が加担していた気がしてならないのに、妙に矮小化させているような気がしてならなかった。
 ワトソン弁護士を演じたサム・ロックウエルが美味しいところを持って行っていたが、彼が御見事だったと語っていたリチャード(ポール・ウォルター・ハウザー)のショウ捜査官との対決場面が印象深かった。
と記してあるが、百年前のジョーンズ警部のように措置入院させたり、逮捕したりはしていなかったものの、ショウ捜査官の下衆っぷりは、ジョーンズ警部とスティール医師及びタール医師を合わせたような最低ぶりだった。

 労働者階級の女性に過ぎないとクリスティンを舐めきっていたジョーンズ警部同様に、ショウ捜査官は、リチャードを愚鈍なプアホワイトに過ぎないと舐めきっていて、FBIの理不尽で悪意に満ちた捜査に対して余りに愚直に応じるリチャードに繰り返し、ワトソン・ブライアント弁護士(サム・ロックウエル)が忠告していたが、あんたのようにはなれない、僕は僕だと叫ぶ姿が印象深かった。そして、ピードモンド大学のクリアー学長の腹いせめいた通報に潜む悪意の自覚なき悪質さに、百年前の医師たちに通じる思い上がりを感じた。

 事件の起きたアトランタ五輪の十年前、1986年に法執行官になりたくて中小企業庁の現業職員を辞して警備員に転職することにしたリチャードにワトソン弁護士が言っていたきっと君は警官になれるだろうが、下衆野郎にだけはなるな、忘れるなよ。権力は人をモンスターにするとの序盤の台詞が利いていたように思う。政府機関であれ、メディアであれ、強大な権力を持つなかでプレッシャーに晒されつつ功名心や保身に駆られると、とんでもない悪行を為すようになってしまうということだ。

 映友がショウ捜査官のほうはどうなったのだろうと言っていたが、百年前のジョーンズ警部は停職になったけれども、ショウ捜査官は誤認逮捕まではしていないし、地元紙記者へのリークの件が露見していなければ、咎められていない気がする。リチャードが六年後に警察に就職できているということは、おそらくリチャード側はFBIを違法捜査で訴えてはいないのだろう。




推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20200201
推薦テクスト:「にゃんこな日々」より
https://blog.goo.ne.jp/tome-pko/e/3a9abb6c4aa4c9a2e30d2f61b6a2237d
by ヤマ

'23. 8. 7. DVD観賞



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