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『17歳』(Jeune & Jolie)['13] | |||||
監督 フランソワ・オゾン | |||||
三年余り前にNetflix配信動画で駆け込み観賞した際に「イザベル(マリーヌ・ヴァクト)に仄聞していたほどの魅力を覚えず、既視感のある援助交際を描いたものと大差ないように感じた。」とメモしていたら、旧知の映友女性から「本当に面白くて、ヒロインの気持ちが手に取るようにわかり」とのコメントを寄せてもらっていた作品だ。 無料配信されているのを見留めたので、これも巡り合わせと再見してみた。映友女性(ケイケイさん・TAOさん)たちのようには響いて来なかったものの、前回観たときよりは面白く感じられた。 十七歳の誕生日を目前にロスト・ヴァージンを試みて、首尾よく果たしたものの、おそらくは想定外の大きな失望を味わい、性行為にシニカルになったと思しき少女の無軌道を描いて、何やら身も蓋もない作品だったように思う。前日に観たばかりの「Kate & Leopold」(『ニューヨークの恋人』['01])とは対照的な「Jeune & Jolie」だったわけだが、こちらの&は、どうやら「若くて美しい」との意のようだ。 僕が「身も蓋もない」と記し、TAOさんが「変に共感してみせたり、強引に社会的な意味づけをしたりせず、あっけらかんと」と綴り、ケイケイさんが「獰猛で野蛮、そして幼さからくる純粋さを、余すところなく」と書いている本作でのオゾンの表現に対する感じ方の差異が興味深い。言葉的には「身も蓋もない」「あっけらかん」「余すところなく」で通じ合っているところがまた愉快で、オゾンの変に誤解を与えない的確表現とも言える気がした。 また、未成年ゆえに売春をしていても法的には被害者となりつつ、精神療法を義務付けられていたイザベルが、自分を汚らわしいと感じる理由を精神科医から問われて、性を売ったからではなく、思い掛けなく腹上死させてしまったジョルジュ(ヨハン・レイゼン)を「殺したから」と答えていたことが目を惹いた。身体を交えること自体は、介在するものが愛だろうと金だろうと、不本意なものではなく自己決定に基づくものであれば、何ら疚しくはないということなのだろう。ちょうど視聴したばかりのピンク映画『悶絶本番 ぶちこむ!!』に出てきた「間違っている でも、物凄く間違っているわけじゃないだろう」とのフレーズを想起した。 それにしても、思い掛けなくも娘が売春をしていたことを知らされた親の姿として、イザベルの母にしても義父にしても、恐るべき冷静さで合理的に対処していて驚いた。バイアグラリスクによって亡くなったと思しきジョルジュの妻(シャーロット・ランプリング)の人物像も現実離れしていたが、弟のヴィクトルを含めて、イザベルの家族たちのほうが凄いと思った。 思い掛けなく深夜にバスルームで義娘の裸身に出くわしたことで「こんな時間にシャワーだ」という夫に「女の事情よ」と返していた台詞だとか、姉のボーイフレンドが泊って行った朝の食卓で、姉がシャワーだと聞いて彼に「自分は?」と問い、寝起きに交わったまま「まだだよ 分かるかい?」と応答したことに「クサいよ」と返す台詞などが触発する生理的な生々しさにも恐れ入った。 騎乗位での挿入後の行為中に「ごめん…なぜかな」と洩らした男に対して「任せて」と言って指を舐め、跨ったまま指技を施して蘇らせていたと思しき十七歳の今後の恋愛事情は多難かもしれない。泊り明けのアレックスに「恋してないから」と別れを告げていたイザベルは、ヴァージンのときから、御相手に目したドイツ人青年のフェリックスがバカに見えていたくらいだから、きちんと恋することがなかなか難しそうな気がした。 ケイケイさんから「私は荒ぶる魂を抱えた少女を、性を通して描いた青春譜だと思っています」とのコメントをもらったが、性を通して描いた青春譜であることには僕も異論なし。「この作品の肝は、ランプリングとバクトが似ている事」だという指摘については、17歳でジョルジュと結婚したアンヌと17歳で売春を重ねたイザベルでは正反対のようでありながら、生まれた時期が入れ替われば、イザベルがジョルジュと結婚し、アンヌが売春遍歴を辿ったようにも思える描出をしていた点が、なかなか意味深長だったとは思うものの、かなりあざとい作り手だなとの思いが拭えない気がした。 | |||||
by ヤマ '23. 2. 4. abema.tv | |||||
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