『牛泥棒』(The Ox-Bow Incident)['42]
監督 ウィリアム・A・ウェルマン

 正義の名の元に“私刑”としての縛り首を扇動するテトリー少佐(フランク・コンロイ)が普段着として軍服を着用している姿に、戦後日本の反戦映画に描かれていた戦時中の在郷軍人のイメージが重なった。気優しい息子のジェラルド(ウィリアム・アイス)から「あなたにあるのは権力と残酷さだけ」と非難され、犯した過ちの重大さに耐えきれずに自死していたあたりは、八十年前の映画作品らしい真っ当さなのだが、かような作品が太平洋戦争のさなかに製作されていたことに驚いた。力こそ正義だ、数こそ正義だ、というような暴論は、戦時にこそ流行しがちなもので、当時のアメリカにおいても愛国心の名の元に、ジェラルドの指摘していたような“権力と残酷”が吹き荒れていたに違いないのだ。1885年の南部の町での話だとしながらも、同時代を意識していたに違いないと見込まれる作り手の気概に感心した。

 テトリー少佐の扇動に乗らずに、殺人犯の牛泥棒という嫌疑を掛けられたマーティン(ダナ・アンドリュース)たち三人を裁判に掛けるべきだとして異議を唱える側に回ったのは、数十名のうちの七人。なぜかここでも七人の侍となるわけだが、その七人の活躍によって、言うなれば“真の”正義が果たされるという形にはなっていなかった作劇に大いに力があった。七人のうちの一人として事件の顛末を目撃するのが、町の人々からは余所者ではあっても見知らぬ者ではないらしい様子のカーター(ヘンリー・フォンダ)とクロフト(ハリー・モーガン)で、ヘンリー・フォンダが多勢に無勢の正義の人を演じていると、ついつい後年の『十二人の怒れる男』['57]を想起しないではいられない。だが、陪審員8番のときとは違って、為す術なく佇む姿が印象深かった。

 残りの六人は誰だったかを思い起こすと、もともと私刑反対で裁判を訴えていたデイヴィス(ハリー・ダベンポート)、カーターの連れのクロフト、父親と確執のあるジェラルド、聖書をまるまる暗記しているというスパークス(リー・ウィッパー)、あと二人は誰だったか思い出せない。女だてらにライフルを振り回し、威勢も恰幅もよかったママ・グリアことジェニー(ジェーン・ダウエル)は、木の枝越しの縄を首にかけた三人を乗せた馬への鞭入れという処刑人役を誰もできないと言うなら自分がしてもいいと申し出ていたくらいだから、間違いなく違うけれど、誰だったのだろう。

 また、テトリー少佐の意気がり方が亢進していくうえでは、最初に民警団を率い始めていた牧童ファーンリー(マーク・ローレンス)との主導権争いが大いに加担しているように描かれていた点が、なかなかのものだったように思う。カメラもしっかりしていて、画面が実に端正で、思わぬ儲けもの作品を観たような気がした。しかも七十分余りというコンパクトさに畏れ入った。
by ヤマ

'22. 5.29. BSプレミアム録画



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