『シマロン』(Cimarron)['60]
『大砂塵』(Johnny Guitar)['54]
監督 アンソニー・マン
監督 ニコラス・レイ

 いくらなんでも「イカれた荒くれ者」を意味するらしいシマロンという自分の異名を息子の名前に付けたりするのか?と思うヤンシー・クラヴァット(グレン・フォード)ではあったが、その破天荒な生き方からすれば、辻褄が合っているのかもしれない。

 先に観た『シマロン』は、二年前に観た遥かなる大地へにも描かれていた土地の獲得競争【ランドラッシュ】から始まり、1914年の第一次世界大戦に至る二十五年間を破天荒に生きた夫婦の物語だった。互いに惹かれ続けながらも、真っ当な安定を求める妻センブラ(マリア・シェル)と冒険を求め沽券を大事にするヤンシーとの、人生における価値観の違いの齟齬に妙に納得感のある作品で、西部開拓史的にも興味深い映画だったように思う。

 出番は少なめだったけれど、ヤンシーの元恋人ディクシーを演じたアン・バクスターが眼を惹いた。利よりも義を重んじ、孤立しても気概と押出しで己が道を切り開くヤンシーに対置されていたトム・ワイアット(アーサー・オコンネル)が石油成金として成功するばかりか、先住民居留地の詐欺的買収による利権漁りを“経済活動”として描くとともに、彼が恩人ヤンシーの彫像を自身が設立した大学に据えていたラストが目を惹いた。

 ランドラッシュへの参加から、育ての親とも言うべきサム・ペグラーの創刊した新聞社を引継ぐもシマロン魂が冷めやらず、妻子を残して再びランドラッシュに参加した後、キューバで義勇騎兵隊に加わったり、アラスカで狩猟生活を営んだりといっさい家庭を顧みず、果てには第一次世界大戦に英国兵士として加わって戦死したヤンシーを西部開拓精神の体現者として顕彰する遺族を描くような作品は、今だと製作困難に見舞われるに違いない気がした。


 翌日観た『大砂塵』は、これがかの、とヴィクター・ヤングによる映画音楽のほうは耳馴染みながらも、映画本編については、かねてよりの宿題映画だったものをようやく片付けたものだ。奇しくも『シマロン』同様に、男の呼び名を作品タイトルにしながらも、物語的には相手の女性の生き方やキャラクターのほうが主軸になっている映画だった気がする。

 序盤に登場したヴィエンナ(ジョーン・クロフォード)の店が見舞われていた猛烈な砂嵐のごとき“エマ(マーセデス・マッケンブリッジ)の妄執”が印象深い作品だから、名うてのガンマンながらも銃を捨てギター弾きになっていたジョニー・ローガン(スターリング・ヘイドン)の異名をタイトルにした原題より、邦題のほうが断然優れているように思われる作品だった。

 男に必要なのは、旨いタバコとコーヒーだけだなどと気取っていながら、五年ぶりに相対した嘗ての恋人に別れた後の男の数の探りを入れたりするジョニーよりも、疑うなら何を言っても無駄よとぴしゃりと言い放つヴィエンナのほうが断然颯爽としていて、トップクレジットがジョーン・クロフォードなのも当然という、異色という以上にヘンな西部劇だったように思う。

 ジョニーが冴えないのは、引き立て役なのだから折り込み済みだとしても、ダンシング・キッド(スコット・ブレイディ)への執心から来るヴィエンナへの逆恨みを兄の殺害にかこつけて些かファナティックなまでに募らせたエマの言いなりになっているマカイバー(ワード・ボンド)率いる喪服に身を包んだ追撃隊の男たちの無定見が何とも冴えないというか、情けなく感じていたら、マカイバーが最後になってやおら最初から女同士の戦いだったなどと言い出し、思い切り脱力した。

 それを見越していながらのターキー坊やの縛り首かと唖然。初めて自分を特別な存在だと思えたとの言葉を残して死んでいったトム(ジョン・キャラダイン)はまだしも、裁判にかけようとしていた保安官など、実に全く浮かばれないじゃないかと呆れる他ない町の顔役マカイバーだった気がする。エマはすっかり逆上しているのだから仕方ないにしても、それを察知していたのなら、お前が引っ張られるなよと思わずにいられなかった。

 それにしても、妙に刺々しい言葉の遣り取りばかりが耳に付く何ともスッキリしない西部劇で、'50年代前半のウエスタンだとは思えないテイストだった気がする。
by ヤマ

'22. 3.20,21. BSプレミアム録画



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