『去り行く男』(Jubal)['55]
監督 デルマー・デイヴィス

 原題であるジューバル(グレン・フォード)から恩人・親友と呼ばれ、牧童たちからはこれまで出会ったなかで最高のボスと慕われる牧場主でありながらも、カナダから連れてきた若妻メイ(ヴァレリー・フレンチ)からは毛嫌いされるのも無理からぬ男シェップの、粗野で開けっ広げなデリカシーのなさを体現していたアーネスト・ボーグナインが、何とも哀れっぽい作品だったが、作中で牧童のサムが同僚のカーソンに零す神の最大の失敗は人間を創ったことなんじゃないかという台詞が沁みてくるような人の愚かさ哀しさを炙り出した、大いに観応えのある西部劇だった。

 シェップから妻との関係がうまくいっていないことへの助言を求められたジューバルが、シェップの言う“愛情表現“としての若妻への尻叩きについて、「人前でのそういうことを先ず止めることだ」とたしなめていたことが目を惹いた。映画日誌に今ではとても通用しないに決まっている“昔馴染みっぽい人妻への尻叩き”が親愛の挨拶になる時代の作品と記した泳ぐひとは、'66年の作品だったから、その十年あまり前となる'55年に、半世紀以上前の西部開拓時代を描いた作品のなかで、こういう場面を設えていることに感心した。メイがジューバルに訴えていた「彼にとって私は雌馬なの、家畜なのよ」との台詞がなかなか痛烈だったように思う。ジューバルに「彼を殺したのは私よ」との懺悔を残して事切れていたメイの人生も、シェップ同様に何とも哀れっぽく、ただの淫奔だとも思えなかった。

 また、ジューバルを妬んだ牧童ピンキー(ロッド・スタイガー)の扇動やメイの虚言を観るにつけ、思い込みや思惑によっていかようにも色づけられてしまう“人の話”というものに呆気なく左右されてしまう人間集団の危うさについて思いが及ぶ。現代における、匿名者の書き込みやシェアは無論のこと、メディアの報じる記事にさえも、なかなか信に足るものが得られない人間社会の難しさを思わずにいられなかった。メディア・リテラシーの問題だとか、ネット社会の危うさだとか言われがちのことだが、もともと人間社会の持っているものであることが改めて痛感される。そういう社会のなかで、冤罪など起こらないことのほうが不思議だと思わずにいられない。

 そして、最後のシューバルの決着のつけ方が、恩人シェップと出会った早々に彼が声を掛けられた「逃げ続けるよりも決着をつけるほうが楽かも」に沿った形になっている収まりの良さが気に入った。自分を助けてくれた人物は、亡き父親のほかには彼が初めてだ、というようなことを心寄せるナオミ(フェリシア・ファー)に告げていたシューバルが、親友で恩人である亡きシェップの教えに従ったことになっていたからだ。

 チャールズ・ブロンソンが美味しい役どころの脇役で、途中からかなり唐突に登場したことも目を惹いた。画面も美しく、キャラクターもよく立っていて、上等の作品だと思う。
by ヤマ

'22. 1.16. BSプレミアム録画



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