『脱出』(Deliverance)['72]
『激流』(The River Wild)['94]
監督 ジョン・ブアマン
監督 カーティス・ハンソン

 渓流下りアクション映画として名高い二作を観た。今や恒例となった合評会の課題作品としてカップリングされたもので、思いのほか面白くて堪能した。どちらの作品も序盤に出てきたキーワードが効いている点で、脚本のよく練られた映画であるとともに、主題曲に魅力があったように思う。秀作とされるのも道理だ。

 先に観た『脱出』のバンジョーによる演奏曲は、むかしから耳に馴染んでいる映画音楽の代表的なものだったが、映画作品そのものを観るのは初めてで、こういう使われ方をしていたのかと意表を突かれた。川下りの激流のスピードを思わせる速弾きに、てっきりその場面で使われているのだろうと思っていた。また、専ら活劇だろうと思っていたので、環境破壊を批判する対話によって始まるオープニングからして「え? そういう映画なの?」と吃驚したが、実に観応えがあった。

 なかなか意味深長な物語で、ダム湖の下というものには、実はとんでもないものが眠っているという話であるとともに、武器は決して身を守らない、身の破滅をもたらすという話だと思った。ダム開発についての自然をレイプしているというルイス(バート・レイノルズ)の発言を過激な意見だなと返す遣り取りが最初にあるが、よもや本物のレイプが出てくるとは思いがけず、「この映画は、いったい何処へ向かっていくのだろう」と唖然とした。

 ボビー(ネッド・ビーティ)を無理やり犯すだけでなく嬲りものにしていた男も銃がなければ、あそこまではできなかったはずで、結局それで命を落とすし、エド(ジョン・ボイト)もルイスが持ってきたアーチェリーがなければ、誤認殺人を犯すことにはならなかったわけで、作中で語られる便利な世の中にはしっぺ返しが待っているの最たるものこそ武器・武力だという気がした。とりわけ強迫に駆られて思い込みに囚われた者が武器・武力を保有していることほど危ういものはない。

 映友から「山の暮らしの人々」の描き方について問われたが、そこにあったのは、川下り見物であれ、電源開発や治水潅漑といったダム開発の目的であれ、都会人にとっての御都合主義によって蹂躙されている辺境の惨状というもので、無自覚な形で都会人の見せる驕りというか押し付けがましさは、ルイスの持ち込んだ洋弓のみならず、ドリュー(ロニー・コックス)のギターにおいても同じだったりするところに現れていた気がする。ボビーの受けたレイプという“蹂躙”に対しては敏感に反応しても、ルイスの言葉に「自然」はあっても「山の人々の暮らし」はないことに反応する人は少ないわけで、それが都会人だと言わんばかりの作品だったように思う。

 最後の場面については、受け止めの分かれるところがあるような気がするが、ありがちなドラマのように、保安官の今回だけはによって切り抜けたようでも早晩、事件は露見することを示唆していたとは僕は思わない。手が浮かぶのは、あくまでエドの夢のなかであり、その後に改めて穏やかな湖水面が映し出されたことからすれば、あくまでもダム湖の下に眠り続けているのだろう。肝心なのは、たとえ表沙汰にはならず、忌まわしい現場からは脱出できても、起こした出来事からは「解放(Deliverance)」されることがないということだ。殺人や自然破壊の残した禍根は、表に現れずとも取り返しがつかないというラストだと感じた。

 ダムを造れば、必ずダム湖によって沈潜させられるものがあるという意味でのダムの持つ象徴性が、活劇ドラマに留まらない深い表象を果たしていたような気がする。保安官の今回だけはが端的に示しているように感じられた“臭い物には蓋”式に湖底に沈めてしまうダム的なものというのは、人の心理作用としてもありがちなことだが、武器同様に“大きなしっぺ返しを招きがちな利器”なのだろう。

 また、エドによる無理無謀とも思われる線での口裏合わせが早々に馬脚を現し、筋書変更を告げにルイスを病院に訪ねて来た際に、これが一番とばかりにルイスが記憶にないでいくことにしていたのが、なかなか痛烈だった。近ごろ実に広言を憚らない公人が増えてきたこの台詞ほど始末の悪いものはないわけで、下手に策を弄するよりも、徹頭徹尾しらばっくれる厚顔無恥に向けた真っ当な対処法は、なかなかないとしたものだ。そんなふうに感じたのは、そのことを近年の国政の場において、嫌になるほど目の当たりにしているからかもしれない。


 翌日に観た『激流』も今回が初見だ。カウボーイ・ジャンキーズによる♪THE WATER IS WIDE♪が最後に沁みてくる、なかなか好い映画だった。

 ハートマン一家にとっては、これ以上のものはないような厳しいクェストだったが、ゲイル(メリル・ストリープ)の母が冒頭で問い掛けていた離婚に逃げ込むの?に対して、そのような選択肢がなかったという母親の時代とは異なる経過を辿って果たされた家族の再生に納得感があった。

 大試練と訳されていた“ガントレット”と呼ばれる激流ポイント以上の大試練だったのは、トム(デヴィッド・ストラザーン)に課せられていたものだったような気がする。マグナム357を奪い取ることに失敗した後の彼にできることに当てはなく、それでも只ひたすら妻子を追いつつ、何かできないかと必死になっていた姿が妻ゲイルと息子ローク(ジョゼフ・マゼロ)をマグナム以上の威力で心打ったわけだ。最後の場面で救助隊員から「それじゃあ、パパは何を?」と問われて父を語る息子の誇らしげな言葉に足るトムの奮闘ぶりだった。

 三年連続で息子の誕生日イベントをキャンセルしかけていたトムが、飛行機を乗り継ぎ、チャーター便まで手配して後から追ってきたことを、それなりに認めながらもそれでほぐされるには至らない程に拗れていたゲイルが(ロークは)眠ったわと焚火の傍で話し掛けた最初の場面で、そこでキスの一つもしていれば、などと思わされるのだが、トムの不器用さではそれも叶わず、むしろ川下りで知り合い、同行することになったウェイド(ケヴン・ベーコン)へのゲイルの様子を気にして不興を買う始末で、全く先行き心許ない有様だった。それでも、おそらく都会暮らしのなかでは夫が見せたことのなかったであろう活躍を、若き日からの彼女のホームグラウンドとも言うべき大自然の渓流のなかで示したことによって夫を見直し、次第にウェイドの不審さが露わにもなってきて、二人の間に横たわっていた“水の隔たり”も狭まっていく。折々に頻出する♪THE WATER IS WIDE♪のメロディが沁みてくる。そして、まだ明るい焚火の傍でのゲイルの誘いの眼差しを見落とすトムと、それよりもずっと暗い仄明かりでも夫の誘いの眼差しを見逃さない妻との対照に、思わず微苦笑を誘われた。

 こじれた夫婦間の距離が近づいたり遠のいたりする微妙なさまが演技巧者の二人によってよく描き出されていたように思うけれども、それ以上に流石だったのがこういう役どころの巧いケヴィン・ベーコンお得意の不気味な怪しさで、登場早々から見事だったように思う。ロークに帽子をやって歓心を買う場面からして危うさ満点だった。

 脚本的には、トムをボートに乗せたままで物語を運ばなかったところが天晴れで、夫婦間の距離の描出をこういう形で描き出すのかと感心するとともに、最後のゲイルの一発の前にウェイドに能書きを語らせていたのが行き届いていた。あの念押しが添えられているからこそ、ウェイドの指摘した迷いや後悔への懸念は、観ている側も含めて払拭されることになる。また、ロークが救助隊員に言った命を救ってくれたにしても、直接的には、ガントレットを乗り切り、ウェイドを仕留めた母ゲイルに他ならないはずなのだが、すっかり気力を奪われていた母に活力を吹き込んだのが、父トムの“思い掛けない生存と大追跡”を告げた狼煙にあったことをロークは身を以て理解していたということなのだろう。喪失することで自分にとっての真価を知るのは人の常としたものだが、トムから狼煙の上がったタイミングが実に絶妙で、更には、クエスト達成の標として刻まれる“古代の絵文字”の話や祖父との対話に必要な手話の件も抜かりなく利いてくる運びになっていて、大いに感心した。

 それにしても、メリル・ストリープは、よくぞかほどの力仕事を引き受けたものだと敬服した。聞くところによると、アクション場面のほとんどを自分でこなしたらしい。そして、夫に向ける眼差しの微妙な揺らめきと距離感の描出は、彼女の演技力ならではのものだったような気がする。実に大したものだ。

 また、まさに激流との邦題に相応しい迫力で映し出されていた渓流下りは、前日に観た『脱出』以上だったようにも感じた。エンタメ映画としても、とても観応えのある作品だったように思う。




『脱出』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4256940197738864
『激流』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
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by ヤマ

'22. 1.14. DVD観賞
'22. 1.15. DVD観賞



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