『あのこは貴族』をめぐって
【FBコメント:マルさん、ヒラリン牧師、カーリー理恵姐】
【メール談義:TAOさん】

-------フェイスブックのタイムライン記事(12/5)で重ねた談義-------
(マルさん)
 うちのカミさんはこれ、大好きなんですよ。彼女にもああいう「気分」のようなものが実感としてよくわかるらしいです。
 山下リオはよかったですね。彼女が演じたキャラクターは原作ではほとんど描かれてないんです。あの人物をヒロインに大きく関わらせたことが作品の成功に寄与していると思います。それにしてもアタシらの老後は、下の毛の処理から始まるという台詞は傑作でした。

ヤマ(管理人)
 本作の好い場面は、ほとんど里英(山下リオ)絡みの場面だったような気がします。そうですか、原作にはないんですか(笑)。
 華子にしても、美紀にしても、幸一郎との関係をもう少し踏み込んで描いていれば、血の通いの得られる人物造形になっていたような気がするんですけどね。深入りすると、ありがちな恋愛ドラマになりそうで腰が引けたんでしょうかね(笑)。

(ヒラリン牧師)
 ヤマさん辛口ですね。男の僕にどこまで彼女たちの思いを掴めたかは分かりませんが、微妙な女性の心理をうまく描けてたと感じました。確かに山下リオも良かったですが、それを引き立たせたのは、水原希子だと思います。門脇麦は、受けの芝居がうまかったです。

ヤマ(管理人)
 華子にしても、美紀にしても、幸一郎との関係をもう少し踏み込んで描いていれば、血の通いの得られる人物造形になっていたような気がするんだけど、そこに深入りすると、ありがちな恋愛ドラマになりそうで腰が引けたのかもしれない。マルさんの話を聞いて、里英に逃げたんだなという気がした(笑)。
 もっとも、チラシに記されていた“シスターフッドムービーの新境地”というのは、逸子だけでは足らず、里英あってこそのものだと思うから、逃げではなく奏功と言うべきなのかもしれんね。

(ヒラリン牧師)
 彼女たち二人を結びつけたのは幸一郎ではありますが、幸一郎を描く話ではないので、僕はあれで良かったと思います。幸一郎は二人をつないだキューピッドに過ぎないと思いますよ。
 シスターフッドというのも久しぶりに聞いた気がしましたが、女性の絆まで言わずとも女性たちの連帯のつながりですからね。美紀と里英、そして華子と逸子。僕は山下リオよりも石橋静河のほうが印象に残りましたね。彼女、原田美枝子の娘ですよね。

ヤマ(管理人)
 彼女たち二人って、華子と美紀? それだったら引き合わせたのは、日誌にも書いたように、ヴァイオリニストになった逸子(石橋静河)であって、幸一郎が結びつけたわけじゃないと思うなぁ。それに華子と美紀はキューピッドが介在するような蜜月関係ではなかったように思うし。
 美紀と里英、華子と逸子は、それぞれそうよね、言うように。そこに幸一郎の介在はないよね。原田美枝子と石橋凌の娘だという石橋静河は、評判になった『夜空はいつでも最高密度の青色だ』よりも好かった気がするねー。

(ヒラリン牧師)
 いやいや、直接的には逸子が繋げたのは確かですが、その理由と云うかきっかけは幸一郎ですよ、そして違う階層にいて通常はつながることはなさそうな二人が、親友までの関係にはならずとも二人の間にもシスターフッドの関係が生まれたことがあの映画のポイントだったのではと思います。

ヤマ(管理人)
 本作には、“女同士の分断”に対する異議申し立てが重要なモチーフとしてあるのは、台詞でも明示されていたし、異論はないけれど、反目し合わないからといって、華子と美紀の二人の間にもシスターフッドの関係が生まれたとまで観るとは思い掛けなかった(驚)。
 僕は、やはりチラシにいうシスターフッドというのは、美紀と里英、華子と逸子のものだと思うけれど、そーか、華子と美紀の間にもシスターフッドが生まれたことがポイントになるんやね。そこんとこの受け止めがマイベストテン1位候補と選外の分かれ目だったんだろうかねぇ(笑)。

(ヒラリン牧師)
 劇場外のガラス看板のなかにおそらくパンフレットの中身だと思われるモノが掲示されてますが、そこに監督の岨手由貴子のコメントがあって、そこに華子と美紀のシスターフッド関係のことについて触れていました。美紀と里英、そして華子と逸子のような友達関係だけなら、ただの女の友情話です。
 この映画のポイントは、同じ空の下、私たちは違う階層(セカイ)を生きている・・・というこの映画のキャッチコピーにある通りです。タクシーに乗っていた華子が、自転車に乗って脇を通り過ぎて行く美紀に声を掛けて、彼女の部屋を訪れる、あそこがこの映画のクライマックスだったと僕は受け留めました。

ヤマ(管理人)
 なるほど、そうなんだね。作り手は、それを描きたかったのか。僕には伝わって来なかったけれど。華子は、部屋のなかでいろいろ写真とか興味深げに見つめてたよね。
 僕がそういう造形になっている人物像そのものが妙に取って付けたような印象が拭えず、ほかの人物像の醸し出す現実感に比して、どうにも実在感に乏しく、血の通いというものが感じられないように思えたのと、ちょうど正反対に作用してヒラリン牧師さんには、まさに映画のクライマックスになったということよね。やはり、そこが分かれ目だったようだねー。

(ヒラリン牧師)
 あの時、華子が部屋見ていいですかと云いました。あれも不自然と云えば不自然に思えるセリフなんですが、それまで狭い“松濤”という特殊世界のなかに囲われるように居た華子が外の世界を見ようとした、そういう意味のセリフだったと思います。あの二人はあまりに違うので、あの後も親友のような関係にはならないでしょう。しかし、離婚した(あの時はまだ決意しただけだったかな)ような苦しい時に、彼女は違う階層の美紀に頼ろうとしたのです。それこそがあの映画の面白かった点です。

ヤマ(管理人)
 そこを取って付けたように感じずに、面白く観ることができるほうが断然お得だから、それは良かったね。にしても、彼女は違う階層の美紀に頼ろうとしたのか!(驚) なんでそういう気になったんだろう。苦しい時には藁をも掴むと言うにしても、何だか釈然としない気持ちが残るなぁ。そこんとこは、どう観たの?

(ヒラリン牧師)
 親の敷いたレールを走り、おそらく親から言い聞かせられて来たのであろう「女の幸せは結婚」という思いで、結婚はしたけど、そこには幸せは無かった。そんな華子からすると、自分とは違う階層に生き、自分の足で立って歩いているように見えた美紀から何か得られればと思ったんじゃないですかね。

ヤマ(管理人)
 なかなか殊勝なんだね。なるほどねぇ。僕が血の通いを感じられなかったのも、そういうとこなのかもしれないなぁ、もしかすると。
 おかげで段々はっきりとしてきたぞ(礼)。

(ヒラリン牧師)
 まあ、どっちの観方が正しいとかってことではなくって、どう感じるかの問題ですからね。ヤマさんはこの映画では感じられなかったんでしょうが、僕は『ONODA』では、外の世界のこともだいたいわかっていたのに、ジャングルから出て来なかったその心が、いくら陸軍中野学校での教えがあったからだとしても、出て来なかった理由が描けてないように思えたので、もうひとつ高い評価が出来なかったのですよ。

ヤマ(管理人)
 うんうん、そういうものよね~(笑)。ただ、ヒラリン牧師さんは僕の意見を読んで、納得感が得られたみたいやったけんど、僕にはそれがまだない。どっちが正解とかいう話ではなくて。
 にしても、観客である僕らは、美紀が言うところの、せっかくの“太いパイプ(幸一郎)”を潔く切った彼女のその後を知っているから、言うところの違う階層に生き、自分の足で立って歩いているように見えた美紀が判るのだけど、華子に何でそれが判って、頼ろうという気にまでなれるのかな?

(ヒラリン牧師)
 そこには、逸子の存在もあったのではと思います。それと、彼女のすぐ上の姉の次女の麻友子の影響もあったのかも。

ヤマ(管理人)
 手書き名刺を貰った逸子が美紀との付き合いを深めていってたので、そこからサジェスチョンがあったということ? ほほう!  では、次女の麻友子の影響とは?

(ヒラリン牧師)
 いやサジェスチョンがあったかは分からないけど、自分よりは外の世界を知っているように思えたであろう逸子の生き方にヒントがあると思ったことから、美紀からも何かが得られるかもと思ったのではと思います。麻友子も離婚したようだし、最初の家族会食の席での発言からも、母や長女とは違ってましたよね。実際その姉に相談してたかはわかりませんが、そんな次女の影響もあったのかなと・・・。
 華子と逸子、美紀と里英の関係はシスターフッドというよりも、友情でしょう。僕の捉える(おそらくそれが監督・脚本の岨手由貴子氏の意図)シスターフッドは、単に女性の友情関係ではないと思います。男を含めた社会全体からの分断攻撃に対抗する連帯の輪こそがシスターフッドだと言いたかったのではないでしょうか。だから、華子は美紀に声を掛け、部屋を訪れ部屋見ていいですかと言って、美紀とつながり、“松濤”の世界を出たのですよ。

ヤマ(管理人)
 華子と美紀の関係は、華子と逸子、美紀と里英の関係よりも濃いの? 驚きだなぁ。シスターフッドって、元々は姉妹関係のことよね? それだからただの友情ではないというのは判るけど、華子と美紀って、そこまで行ってたわけ? 本作で言うところのシェアできていると思える相方の存在ということよね。うーん、謎。
 今ではほとんど使われなくなっていると思うけど、昭和の時代には“穴兄弟”という俗語があったみたいに、よもや幸一郎を介しての“棒姉妹”とかいうんじゃないよね? そういう作品じゃあない気がするし(笑)。
 分断への抗いみたいな話は、逸子や里英から発せられたことはあった気がするけど、華子や美紀はそういうことを口にしてはいなかったし。今後の可能性はあったにしてもなぁ、う~む。

(ヒラリン牧師)
 シスターフッドは、最近はそれほど使われなくなりましたが、正にリブ運動の頃に女性解放運動のなかで使われた用語です。だから、単に姉妹関係を指す言葉ではないです。監督の岨手由貴子さんはその世代ではないですが、あの逸子のセリフからも、彼女がフェミニズムからリブ運動のことまで学んでいるのは間違いありません。
 美紀と華子の関係と、美紀と里英、華子と逸子の関係はどっちが濃いとか薄いと比べられるようなものではありません。全く異質な関係なのです。ただ、ヤマさんが連絡を取り合ったり会ったりすることにこだわられて尋ねておられるなら、そんなの比べ物にならないですよ。華子と美紀とはあの後は全く会わないし連絡も取らないかもしれません。
 あまり“男性”の僕が分かったかのようなことを述べるのは慎重にしないといけないとは思いますが、全女性がそうだとは言いませんが、社会に進出した(しようとした)女性の“男性に対しての恐怖”とか“その壁の厚さに対しての意識”は、男性の想像の域を超えています。男性はそれをわかってない!
 話を映画に戻すと、華子はそれを知ったんですよ。逸子はもちろん、里英も知ってたでしょう。そして美紀も。それを華子は求めたんですよ。

(カーリー理恵姐)
 シスターフッドは単なる友情ではなくて、連帯し共闘する者という意味があります。意識や意思が通じ合う事を主軸に置く関係性。私にもそのように感じている関係の女性がいます。映画を観てないのに横から失礼しました。でも、やり取りに興味を持ちました。なおさら見なきゃね。

ヤマ(管理人)
 ヒラリン牧師さん、話しを映画に戻すと、華子はそれを知ったんですよ。逸子はもちろん里英も知ってたでしょう。そして美紀も。それを華子は求めたという指摘の意味は分かるけれど、それが映画に宿っていたようには僕には思えないなぁ。
 華子がそれを知ったのは、幸一郎が己が一存で“既定路線”としての選挙出馬をしたからなの? 逸子にその意識があったのは、美紀と華子を会わせる設えをしたことやそのときの発言からも明らかだったけれど、美紀も里英も知っていて、その“(意識の)階層”というか“連帯”の輪に、遅ればせながら華子が参画したっていう話だったってこと? そんな映画だったの?  だとすると、何だか益々ピンと来ない感じが強くなってきたなぁ。
 もっと素朴にシェアできていると思える相方の存在を求めるという人の生の原点に立ち返る生き方に踏み出していく女性たちの物語だと思ってたんだけど。
 カーリー理恵姐さんの書いている連帯し共闘する者をシスターフッドの核心として本作を観直した場合、華子と美紀が連帯し共闘して果たしたのが幸一郎の元を去ることだったというわけかねぇ。幸一郎(の階層)の元を去るということが共闘というほどの一大事なのかしら。
 僕的には、華子と美紀の間のシスターフッドというものに囚われると、ますます血の通いから離れて図式的な捉え方で臨むしかなくなるから、どうもしっくり来ないみたい。
 丁寧に問いに応えてくれたのに、済まないね。でも、作り手が何を描きたくて、また、描こうとしていたのかは、より深く判るような気がしてきた。ありがとね。

(ヒラリン牧師)
 いえいえ、こちらこそ自分なりの感想や内容を深めることが出来て良かったです。ありがとうございましたm(_ _)m

ヤマ(管理人)
 ふと思ったけど、華子と美紀の関係を言うところの「シスターフッド」ではなく、恋愛とすれば、とりわけ異性間においては古今東西の作品世界で扱い、描いてきていることなのに、恋愛ではなくシスターフッドだと、なんでこうも釈然としないんだろう(笑)。

(ヒラリン牧師)
 そうなんでしょうね、恋愛なら突然心が急変して恋に落ちる、なんて描写があっても釈然としないなんてことにはならなかったかもしれませんね。それを僕が男対女の構図に当て嵌めて説明して行ったことが原因かもしれませんね、ごめんなさい。

ヤマ(管理人)
 いやいや、何にせよ、お互い「自分なりの感想や内容を深めることが出来て良かった」のだから、意見交換はありがたいことだよ。ありがとね。

ヤマ(管理人)
 カーリー理恵姐さん、いわゆる“同志”というやつなわけだね。ヒラリン牧師さんがヤマさんが連絡を取り合ったり会ったりすることにこだわられて尋ねておられるなら、そんなの比べ物にならないと書いているのは、そういうところから、なんだね。容疑者Xの献身の湯川と石神のような関係といったほうが本作の場合、“同志”よりも適しているのかもしれないけど。

(カーリー理恵姐)
 湯川と石神の関係がわからない。観たように思うけど思い出せない…😅
 『あのこは貴族』は良くできた映画だよ。シスターフッド。30年ぶりくらいの懐かしいリブ用語が現代に現れるとは、隔世の感あり。
 この言葉で、大学時代だったかなぁ、なんか黒ヘル仲間の女子に責められたことがあったなぁ。私、日和見分子やったからからなー。責めなくてもいいのにねー😝(男子にモテたのが悪かったみたい😛

(ヒラリン牧師)
 カーリー理恵姐さん、そんなことがあったんだ! 僕は学生時代には学生運動は終わってたし、リブ運動とも接点はなかったので、シスターフッドについては後付の知識だけど、友情ではないよね。言葉で何と言えば良いのかなあ、単なる親しみでなく、本人にも分からなくとも、惹かれるってか呼ばれるような感覚! 僕は『容疑者Xの献身』は原作読んでから映画観たから、詳しくは忘れたけど、原作から思い描いた石神の人物造形が映画ではあまりに違ったので、違和感有りまくったので、ヤマさんが言う二人の関係かどうかは全く分からない。
 ただ、昨日DVDで再見したが、やはり華子が変わったのは、幸一郎が政治家の道を歩むことを知ったからだけでなく、それは最後の引き金のようなモノで、幸一郎と心が通わない結婚生活にうんざりではないけど、そこから飛び出そうとしたことだと思う。その辺りのことを、岨手由貴子は見事に描いたと思った。

(カーリー理恵姐)
 女の幸せは結婚、って、今も松濤あたりにはあることに驚いた。
 私の母は、婚姻制度反対論者だったからねー。私に女性特有の家事労働や女性の躾や嗜みを一切教えなかった。本人はそれに縛られた人生だったから、真反対に育てたら、こんなになったよ。
 経済力と社会性を身に付けて、自由恋愛で恋人や子どもは持っても好きな事をして生きなさい、と自律を説かれたけど、私は結婚もいいもんだ、と思った。今の夫君だったからだけど。のろけてごめん。でも、夫も結婚当初は戸惑ったみたいね。最初から家事分担で、高知に来て、真っ先にしたことは仕事探しと趣味の居場所作りだったからね。
 シスターフッドから話題が外れましたが、華子のような家と真逆で育ったので、反感持つ人には叩かれたよ。



-------1か月ほどしてからのメール談義-------

(TAOさん)
 映画日誌、興味深く読ませていただきました。
 シスターフッドの正確な定義があるかどうかは分かりませんが、私は、育った環境や立場などの違いを超え、本来は接点のない相手との共感や信頼に基づく連帯であることが重要かなと思っています。そこが、ただの同級生やママ友とは違うところかなと。
 つまりギャップが大きければ大きいほど、連帯の価値が増すというか。

 『下妻物語』のヤンキー娘とゴスロリ少女なんかはその典型で、この映画でも、普通なら敵対しそうな婚約者と愛人を、あえて引き合わせ、情報を共有させる粋な計らいに、まず感動しました。愛人と正妻、立場は違っても、どちらも都合のいい相手としてしか扱われていないことへの共感が小さな起点となって、そこから、一身上の相談をするまでに至る。そこを我ら女性は支持するのではないかな。

 それに、女2人が共闘してリベンジするわけではなく、結婚式に元愛人が出席して新郎をギャフンと言わせる程度の遊び心に留めるところがまた粋だなと。自分の人生を歩み始めた主人公と元夫がたまたま遭遇して、悪びれることなく対話を始めようとするエンディングも感心しました。
 愛人にしろ、妻にしろ、どちらも自分で選んだ道であるという自覚のもとに、責任を一方的に相手に押し付けず、恨みっこなしなところが素敵です。

ヤマ(管理人)
 なるほど、下妻物語のヤンキー娘とゴスロリ少女か。育った環境や立場などの違いを超え、本来は接点のない相手との共感や信頼に基づく連帯であることが重要となれば、美紀と里英、そして華子と逸子のような友達関係とは異なるわけやね。やはり焦点は、美紀と華子の関係なんだなぁ。
 まぁ、本作で敢えて設えられているのは、彼女たちの出会いと縁だったからね。そこに相手との共感や信頼に基づく連帯が充分に描き込まれていたか否かはともかく、汲むべきポイントはそこにある作品だというのは判りました。

 普通なら敵対しそうな婚約者と愛人を、あえて引き合わせ、情報を共有させる粋な計らいというのは、二人と違ってシスターフッドなるものに自覚的な逸子の計らいやったね。即ち、作り手の計らいということになるんだろうな。でも、そこからの一身上の相談をするまでに至るプロセスが釈然としないんよなぁ(たは)。

 愛人と正妻、立場は違っても、どちらも都合のいい相手としてしか扱われていないことへの共感というのは、観客的には素直に了解できることだけれども、当事者間にそういう「共感」が何処から生まれてた?っていうのが率直な感想やったね。

 拙日誌に言うところの「シスターフッド」ではなく「階層を超えた恋愛」とすればとして言及した恋愛なら、一目惚れという言葉があるように了解できるけど、相手との共感や信頼に基づく連帯というのは、一目惚れのような感情とはむしろ対極にあるような相互理解を基盤とするものだから、シスターフッドの眼目が相手との共感や信頼に基づく連帯となれば、尚更に美紀と華子にそれを見出すのが、僕的には苦しくなるということみたい。

 『下妻物語』の桃子とイチゴは、確かに育った環境や立場などの違い本来は接点のない相手やったけど、相手との共感や信頼に基づく連帯を育むだけのプロセスというか関りがきちんと描かれてた気がするよ。だけど、女2人が共闘してリベンジするわけではなく、結婚式に元愛人が出席して新郎をギャフンと言わせる程度の遊び心に留める軽やかさ、換言すれば“(男への)拘りや囚われの小ささ”や愛人にしろ、妻にしろ、どちらも自分で選んだ道であるという自覚のもとに、責任を一方的に相手に押し付けず、恨みっこなしな応分感が素敵だったことに異論はないよ。シスターフッドとはまた違うポイントのような気がするけど。

(TAOさん)
 なるほど連帯に当たるまでのプロセスの描き方が十分でないと。それは確かにそうかもしれませんね。ただ、切羽詰まると、思いもしなかった相手にふと話を聞いてもらいたくなるときってあるんじゃないかな。
 私は初めて仕事で会った男性に、その時抱えていた私的な人間関係のもつれについて長々と話した経験があります。会ってすぐ、その人の雰囲気とか、ちょっとしたひと言から「あ、この人ならわかってくれそう」と思ったような記憶が。逆に長い間なんの音沙汰もなかった昔の友だちから突然SOSをもらって慌てて対応したこともあります。

 でも、そういう関係はあまり長続きはしませんね。そのときはかけがえのない関係なんですが、生涯にわたって続く友情ではない気が。もちろん、ずっと後になってからも、あの人はどうしてるかなとときどき思いを馳せる存在ではあるんですが。
 要するに、友情は長い時間をかけて紡いでいくものですが、シスターフッドというのは臨時的、緊急的なもので、ある程度事態が落ち着いたら解散というか、また別々の道を歩む。ゆるい繋ぎ目みたいなものじゃないでしょうか。

ヤマ(管理人)
 切羽詰まると、思いもしなかった相手にふと話を聞いてもらいたくなるというのは、大いにあり得るねぇ。しがらみがない分、吐き出しやすいしね。かといって、誰でもいいわけじゃないのは、お書きのとおり。
 むかし男たちが、バーやスナックに通った“夜だけのお付き合い”には、性的下心とは別に、そういうニーズが働いていたに違いないと思うよ。

(TAOさん)
 なるほど、それは大いにありそうですね。

ヤマ(管理人)
 でしょ?(笑)
 そういう意味では、ブラザーフッドだとかシスターフッドだとか、殊更に“性差”を持ち出すような話ではないような気がするんだよね。だから、作り手の意図はともかく、もっと素朴に、“シェアできていると思える相方の存在”を求めるという“人の生の原点に立ち返る生き方”に踏み出していく女性たちの物語だったように、僕は思う。と日誌には綴った(笑)。

 そのときはかけがえのない関係なんですが、生涯にわたって続く友情ではないというあたりも、微妙だなぁ。そうでもあり、そうでもなし。いずれの場合もありそうな気がする。
 ただシスターフッドというのは臨時的、緊急的なものゆるい繋ぎ目みたいなものというのは、かなり意外だった。ますます僕のなかでのシスターフッドって何?が、深まってきた感じ(笑)。
 フェイスブックの僕のタイムライン記事(12/5)で重ねた談義のなかで、『容疑者Xの献身』の湯川と石神みたいな関係といったほうが本作の場合、“同志”よりも適しているのかもなどと記したときのイメージではシスターフッドというのは臨時的、緊急的なものゆるい繋ぎ目みたいなものとは真逆のものだったからなー。元々の語義たる姉妹関係からしても、そのイメージには意表を突かれたなぁ。

(TAOさん)
 私自身もこれまでシスターフッドに関して、臨時的、緊急的ゆるいつなぎ目みたいなものというイメージはとくに持ってなかったのですが、『あのこは貴族』という映画の持つ軽やかさに触発されたみたいです。それと、確かにヤマさんがおっしゃるように、生涯にわたって続く友情になる可能性もありそうな気もします。
 そのイメージも入れつつ、私なりのシスターフッドのイメージを再定義すると、期間にしろ、密度にしろ、さまざまなグラデーションがあって、緩急も濃淡もありつつ、まさかの時、ここぞという時に、セーフティネットとして機能するものかな。とにかくフレキシブルというか、動的なイメージなんですよ。

ヤマ(管理人)
 まぁ今回、まさに貴女がそうだったように、改めて自身の思う“シスターフッドなるもの”について振り返る機会を得たということでの意味はあったにしても、物語としては、シスターフッドにそう囚われて観るような映画ではなかった気がするなぁ、僕としては。
by ヤマ

'21.12. 5.~12. 9.
'22. 1. 6.~ 1. 9.



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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