『ファースト・ラヴ』
監督 堤幸彦

 思っていた以上に観応えがあって、感心した。自傷行為を繰り返すことに「自傷癖」という用語が宛がわれるようになったのは、いつ頃からなのだろう。僕自身も以前に使っていた覚えがあるのだが、考えてみれば、無意識のうちに繰り返してしまう「癖」を意図的に自らを傷つける行為に宛がうのは不当極まりないことだと改めて思った。一つ一つの行為そのものに丁寧な眼差しを向ければ、とてもじゃないが「癖」では片付けられない重層化した心の傷が底にあることが浮かび上がってくる。

 それにしても、この物語のタイトルが原作小説ともども「ファースト・ラヴ」となっているのは、何故なのだろう。誰の誰に対する初めての恋なのか。幼い時分の聖山環菜(芳根京子)の小泉裕二(石田法嗣)に寄せる想いでは、座りが悪過ぎるし、真壁由紀(北川景子)になる前の由紀が庵野迦葉(中村倫也)に抱いた想いと経験というのでも妙にしっくりこない。父親と娘の関係の底辺にあるものとして捉えているとしたら、妙に気色が悪いし、何ともすっきりしないが、原作を読むと釈然とするのだろうかなどと思っていたら、ふと「ラヴ」は恋ではなく、人が損なわれずに育つために、先ず得られることの必要なものが愛、すなわち「ファースト・ラヴ」ということだったのではないかと気づいた。“初恋”として人口に膾炙しているところを逆手に取ったというか捻ったのだろう。思えば、それこそが真壁我聞(窪塚洋介)が、僕の写真の原点だと言っていた作品の捉えていたものだったような気がする。

 また、それとは別に、自罰であれ他罰であれ、罰することを求める意味というものは、いったい何だろうとも思った。罰を与えることで、憂さを晴らせる人がいなくはないにしても、そんなことで憂さが晴れる者は一部でしかなく、罰によって回復できる逸失利益などありはしないことを思うと、罰というものは、誰の何のためにあるのだろうと思わずにいられない。

 それなのに、世の中の声が厳罰主義のほうに誘導されているのは何故なのだろう。誰がそのことによって利益を得ているのだろう。この事件に関わった後の事案と見込まれる庵野弁護士の法廷弁論を聴きながら、不寛容の蔓延る世の風潮を実に嘆かわしく思った。
by ヤマ

'21. 2.20. TOHOシネマズ3



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