『おとなの事情 スマホをのぞいたら』
監督 光野道夫

 チラシに「世界最多!18カ国リメイクの“おとなのコメディ”日本版」と記されたオリジナルのイタリア映画は観ていないのだが、日本映画だと思っていたら、コロンビアのロゴで始まり、エンドクレジットに製作総指揮ウィリアム・アイアトンときて、純然たる日本映画ではなさそうな仕掛けが施されての“世界最多!18カ国リメイク”だったのだなと得心した。

 国籍、人種、文化の相違を超えて普遍的な“おとなの事情”というのは、だいたい容易に察しが付くし、ましてや日本版に翻案してあるので、山での遭難か何かだろうと思ったものが3日ほどの台風災害だったことに驚いた。「それならケータイ通じるじゃないか」と少々拍子抜けしたわけだが、そのほかは、次第に露わになって来る“おとなの事情”のいずれもに、驚くような意外性がまるでなかった。それにも関わらず、それなりに面白く観られたのは、概ね三十代、四十代、五十代の3組の夫婦と五十路前の独身男の七人に対する配役の妙と、人の関係性を“月の満ち欠けに準えた大きな視座”の提起にあったように思う。

 劇中の六甲絵里(鈴木保奈美)の台詞にもあった“勝ち負けへの囚われ”にしてもそうだが、ICTの発達した現在は、やたらと細々したところに人の耳目が届きやすくなったがゆえの囚われや口出し、御託が増えてきて、何かにつけて大きな視座が失われてきている気がしてならない。僕が若かった時分の“大人”というのは、ある種の杜撰さとも言える大らかさを許容できる度量のことを指していたような気がする。大人の事情というのは、そういう大人の度量をもってはじめて対処できるものであって、向井杏(木南晴夏)のような子供っぽい尺度で測れば破綻の淵に晒されるものだからこそ、“おとなの事情”なのだと思う。

 さればこそ、本作に描かれた“おとなの事情”などは、それこそ大人の事情として易々とは水には流しにくい面があるだけに、それをも月の満ち欠けに準えて捉えようとする再生力の提起が、何とも好もしく映った。赦すとか赦さないとかいったことを決するよりも、結んだ縁のこれからをどうするかの選択と折り合いに目を向けることのほうが、各々の人生にとっても大事なことだろうと思う。別離を選択するにしても、「赦せないから」などという後ろ向きの理由のもとに選んで、先が開けるような気がしない。己が求める新たな歩みを踏み出すための別離でなければ、選択のし甲斐もなかろうと思う。

 そういう点では、彼ら七人は、生の営みとして立ち返る原点とも言うべき地点を共有していることが何よりもの幸いだったように思う。そして、七人ともに苦笑するほかないような“卑近で珍奇”という相反する印象を兼ね備えた人物造形が施されていて感心したが、そのなかで最も面白く観たのは、園山薫(常盤貴子)のキャラクターと台詞だった。
by ヤマ

'21. 1.31. TOHOシネマズ3



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