美術館 秋の定期上映会
“ぜんぶ5つ星! リバイバルシネマ10選『REVIVAL10』”

Bプログラム
ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ
(Je t'aime moi non plus)['76]
監督・脚本 セルジュ・ゲンズブール
『ヘカテ』['82]
(Hécate, maîtresse de la nuit)
監督 ダニエル・シュミット
Cプログラム
『欲望の翼』['93]
(阿飛正傳[Days of Being Wild])
監督・脚本 ウォン・カーウァイ
『女と男のいる舗道』['62]
(Vivre sa vie: Film en douze tableaux)
監督・脚本 ジャン=リュック・ゴダール

 Bプログラムで観た初見の『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』は、廃棄物処理のゴミ捨て場に着いた運搬ダンプから降りたクラスキ(ジョー・ダレッサンドロ)がゴミ溜めに放尿している後姿を見つめていたパドヴァン(ユーグ・ケステル)に「興奮したか」と声を掛ける後景に、荷台を屹立させたダンプトラックが映し出されるというオープニングそのままの、何とも身も蓋もない排泄と摂取の営みとしての性行為を描いたような作品で、少し感心しつつも半ば呆れながら観た。

 クラスキがガスタンクと揶揄して店員のジョニー(ジェーン・バーキン)にウケていたカフェ店主ボリスのオナラネタは、過日観たばかりの『ファンシイダンス』のオナラ住職よりはましかもしれないが、おっぱいとお月さまのオナラ芸人には、とうてい及ばない気がした。

 監督・脚本を担ったセルジュ・ゲンズブールによる同名曲は、官能的なデュオ・ダンスなどで親しんでいたから、彼とデュエットしているジェーン・バーキンの演じるジョニーが、痛みのあまり大声をあげては繰り返しホテルを追い出されるような性交を描出する作品だとは思ってもいなくて、かなり驚いた。

 自ら「ペチャパイでお尻も薄い」と自嘲していたジョニーに惹かれつつも、女性器には萎えてしまって挿入のできないゲイのクラスキに「男だと思って」と尻を向けるジョニーに対してクラスキが言っていたように、前の性器に挿入するのも後ろの肛門でするセックスにも違いはないにしても、最初は痛みから始まるのも同じだとばかりに無造作に繰り返していた男の姿の向こうに作り手のゲンズブールが透けて見えるような“俺様映画”だった気がする。思わずヴィンセント・ギャロ監督・脚本の『ブラウン・バニー』['03]を想起した。

 ボーイッシュな出で立ちだったジョニーが女性的な服装で現れたことに文句を付けていたクラスキに、黙ってベッドの縁に頭を凭せて跪き、自らスカートを捲り上げてすっぽり頭に被せて剥き出しの尻を掲げて誘っていたジョニーの姿や、クラスキの浮気に逆上したパドヴァンが彼女をあわや窒息死させる暴行を働いたのを目撃しながら殴り付けもしないクラスキに憤慨して平手打ちを加えたジョニーに対して、あっさりパドヴァンと共に立ち去り、遂に大声を挙げずに交わることのできた彼女が全裸のまま屋外に追って出ていたのを置き去りにしていたラストシーンが印象づけたものだったのかもしれない。本作を以てスタイリッシュでオシャレな映画だなどという向きもあるようだが、それに対しては僕には、かなり違和感のある作品だったように思う。

 続けて観た『ヘカテ』は、三十七年前に『民衆の敵』監督 ジョージ・シェーファー)との二本立てを高知名画座で観て以来の再見だ。物語的には、どうもあまり面白くなかった覚えがあって、この歳になるとどのように映って来るのか興味が湧いて足を運んだ御目当て作だった。

 記憶にあった映像の印象に比べて色彩も構成も遥かに優れた画面に驚きつつも、仏人外交官ジュリアン・ロシェル(ベルナール・ジロドー)が嘗ての情事を回顧するなかで「情婦にして友人、貴婦人にして愛人」などと語っていたワトヴィル夫人クロチルド(ローレン・ハットン)がまさしく「未熟な人ね」と言っていたそのままに、ロシェルの凡庸さばかりが目立ち、些か物足りなかった。とりわけ前半において顕著だったように感じる“まどろっこしく思わせぶりな展開”が気に障ったのかもしれない。映友によれば“耽美派シュミット”による秀作らしいが、耽美派と言うならそれに貢献しているのは撮影のレナート・ベルタであって、ダニエル・シュミットではないような気がする。

 加えて、クロチルドを演じたローレン・ハットンに、ロシェルが見境を失くしてしまうほどのファム・ファタールとしての魅惑を感じることが出来ず、ギリシャ神話の冥界の女神ヘカテに擬えられるような女性には思えなかったことが、ますますロシェルの幼稚さを炙り出していたような気がしなくもない。物語的には、1942年のベルンにおける回想話よりも、そこでの再会を果たしていたラストシーンから後の展開のほうが、興味深く思えた。ロシェルにとっての“謎めいたクロチルドの存在”に対して、クロチルドにとってのロシェルは如何なる存在だったのだろう。

 気になっている宿題映画の『トスカの接吻』『ベレジーナ』も当地では公開されないまま観ておらず、本作だけを観て言うのは憚られるところもあるが、ヴィスコンティっぽい雰囲気を好む向きから、かなり過大評価されているような印象が僕にはある。やはり絵に中身が釣り合っていない感じが強くて物足りないと、再見してみて改めて思った。


 Cプログラムは『欲望の翼』が三十年ぶりの再見で、『女と男のいる舗道』が初見だ。先に上映された『欲望の翼』は、前日に観た『ヘカテ』とは対照的に、記憶にあったソフトタッチでムーディな映像の印象に比べて色彩も明度も燻んだ感じで、これが現代のデジタルリマスター版かと落胆した。

 1960年4月16日15:00からの1分の記憶の話をスタジアムの売店に勤めるスー(マギー・チャン)から聞いていた元警官の船乗りタイド(アンディ・ラウ)から一年後に問われたヨディ(レスリー・チャン)がきちんと覚えていることは、さほど特別なことでもないような気がして仕方がないのだが、ともかく全編通じて重ねられる“思わせぶりな場面演出と拵え感の強い台詞のあざとさ”に妙に気持ちが削がれて、人の生の拠り所のなさと寄る辺なさを描いていても、造形された人物像に対して実感よりも違和感のほうを誘われる作品だったように思う。

 続けて観た『女と男のいる舗道』は、大学時分の文芸サークルの後輩が卒業後に主宰していた劇団の公演をたまたま東京出張時に池袋で観ることのできた芝居のタイトルと同じで、由来を尋ねると「作品の中身とは全く関係ないけれども好きな映画なので」と言っていたことが妙に残っている作品なのだが、よもや街娼婦の話だとは知らず、いささか驚いた。冒頭に「ナナをめぐる12景」というクレジットが出たように思うが、確か第十一景に出てきたように思う「芸術・美、それが人生だ」という台詞に相応しく、富嶽三十六景ならぬ“ナナ(アンナ・カリーナ)十二景”という映画だったような気がした。それぞれに展覧会の絵のキャプションのような短い説明文が添えられていた。

 そのなかでは、直接的には後ろ姿ばかりを映して、表情は向かいの鏡越しにぼんやりと映し出すだけだった第一景が、後の第何景だったかに出て来た“女には3種類ある”とその表情について語っていた台詞とも呼応して印象深く、そのいずれだったかを偲ばせて味があり、第何景だったか定かではないが、ナナがジュークボックスの曲に合わせてビリヤード台の周りを踊り歩く光景が目を惹いた。

 また、ゴダールのエッセンスとも言うべき印象のある“引用”が映画、音楽、文学などに渡って頻出していて、カール・ドライヤーの裁かるるジャンヌ['27]やフランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』、レコード店の陳列の最前列中央に置かれた♪The Lion Sleep Tonight♪の文字が目を惹き、書物の表紙に刻まれたエドガー・ポーの文字に目が留まった。

 そういうスタイリッシュな意匠を愉しむことはできるけれども、先に観た『欲望の翼』同様に、造形された人物像に対する実感は一向に湧いてこない映画で、ナナが呆気なく撃たれて人生を閉じてしまう作品の“驚くまでの感興のなさ”に拍子抜けがした。もっとも、そういうところが新鮮でスマートに映ったのだろうとも思う。

 二日に渡って観た四作品に通じているのは、公開当時、いかにも“知的にオシャレな映画”として持て囃された感のある映画だということだったような気がする。何事によらずオシャレというものが苦手で、あまり好きではない僕とは、相性が悪いのも道理だという納得感があった。


公式サイト高知県立美術館




『女と男のいる舗道』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4072611552838397/
by ヤマ

'21.11.20,21. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>