『ONODA 一万夜を越えて』(ONODA)
監督・脚本 アルチュール・アラリ

 小野田寛郎少尉が任務解除及び帰国命令を受けてフィリピン・ルバング島から帰還した1974年3月に十六歳になった僕は、そのときの報道に同時代で触れている。だから、彼をジャングルから引き出した若き冒険家の鈴木紀夫(仲野太賀)が劇中でも語っていたような“野生のパンダとヒマラヤの雪男”の中間に置くほどに彼が人間離れした存在ではなく、非常に生真面目な人物であることや、インタビューに応える際の明晰さと温厚さに強い感銘を受けた覚えがある。そのような人物が、どうして三十年もの間、かような意思を持ち続けることができたのか不思議でならなかったのだが、本作を観て得心できたように感じられるところがあった。

 単に命令に従ったわけではないというのがアルチュール・アラリの解した小野田('40'50年代:遠藤雄弥、'70年代:津田寛治)像だったように思う。確かにいくら中野学校のスパイ養成訓練が優れていて、彼にとりわけ上手く嵌ったにしても、三か月の訓練で三十年もの秘密戦への従事を密林で続けさせるような洗脳を果たせるものではない気がしてならない。むしろ、一般兵士と違って、ただ指令に従うのではなく自分の判断で行動せよと教えられたことが重要で、それゆえに責任転嫁できない自縄自縛に陥って、止めるに止められなくなっていたように思う。自らの判断によって状況に対処することを教官の谷口少佐(イッセー尾形)が迫った♪佐渡おけさ♪の替え歌の場面がやけに強く印象づけられていたのは、そういうことなのだろう。

 現実的に可能で、また効率よく秘密戦を続けるために、敢えて四人に絞り、自身の指揮下に置いて軍務に従わせたうえで死なせた島田伍長(カトウシンスケ)の存在や、'70年代まで付き合わせ、もはや階級差を越えたタメ口を交わすようになるばかりか、密林生活が非日常ではなく日常となり、小塚上等兵('40'50年代:松浦祐也、'70年代:千葉哲也)が「女のことを除けば、もう不足を感じなくなった」と洩らすほどに馴染んでしまっていたことも重要で、こうなってくると従事してきた年月が長くなれば却って止めるに止められなくなるわけで、自分の判断で止めることにするのならば、何故もっと早くそうしなかったのかとの“過去に逸した契機の数々”が苛んでくるからこそ、任務解除が欲しいと鈴木に頼んだように映ってきた。自身の判断として継続してきたからこそ、秘密戦の三十年の年月と殺し死なせてきた人々の命の重みは、とても自分の意思などで解除できるものではなかったということだろうし、三十年間続けたことに対して、自身の判断だけではなく、任務のお墨付きを与えて欲しかったということなのだろう。

 どう考えても無理があるようにしか思えない陰謀論のようなロジックを弄して己が信じたい“事実”に引き寄せ、断片解釈と思い込みに満ちた推論を重ねている小野田の自縄自縛に陥っている姿が痛ましいと同時に、帰還後の活動のめざましさからしても並々ならぬ頭脳と行動力を備えていた彼にして、というか、むしろさればこそ一旦自縄自縛に陥ってしまうと、その呪縛から解放されることが困難になるのだろうことがよく伝わってきて、大いに感慨深かった。

 鈴木が持参していた記事に大正11年生まれとあった小野田少尉が存命していれば、白寿になっている年に外国人によって製作された本作を彼自身で観ることが叶っていれば、どのように観たことだろう。津田寛治は、二十年前に模倣犯を観て強い印象を受け、気に掛けていたのに妙に作品に恵まれていないように感じていたが、これで立派な代表作が出来たように思う。深みのある相貌に心打たれた。
by ヤマ

'21.10.16. TOHOシネマズ3



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>