『絵の中のぼくの村』['96]
監督 東陽一

 全国公開に先駆けた地元公開で観て以来の再見だ。妙にあざといところを感じて、あまり好みではなかった覚えのある作品を四半世紀経て再見すると、どのように映ってくるか楽しみだったのだが、あまり大きな違いはなかった。

 僕と同い年の1学年下になる原田美枝子が、今では僕の長男の今現在と同じ年頃になる。当時36,7歳で、年齢相応の経産婦らしい裸身になかなか存在感があって目を惹いた。自分の意思をはっきりと表明できる職業婦人で、なかなか頼もしかった。むかし観たときも、田舎の自然を捉えた緑色がやけに美しかったところは、気に入ったのだが、今回一緒に観た方が「シェイクスピア劇のマクベスの魔女を連想させる」と観賞後に述べていたような三婆の存在と音楽の使い方が、いかにも外国映画祭の賞狙いに見えて、事実、ベルリン国際映画祭の銀熊賞を受賞しているものだから、妙に気に障ったようだ。もちろん本作を素直に好む人はたくさんいるだろうし、評価する人も数多くいて当然だとも思う出来栄えであって、僕が違和感を覚えるあのあざとさが、受賞にはまさに功を奏しているような気がした。

 原作者である田島征三に限らず、幼時の記憶というのは、そもそも断片的なものなのだから、それを率直に映画化すると、こうなって当然でもあるのだが、エピソードが断片の集積のように感じられて、そこから湧き上がる物語性を映画からは余り感じられないのが難点ではないかと今回、気づいた。だから、タシマ兄弟(松山慶吾・松山翔吾)よりも、センジ(田宮賢太朗)のほうが心に残るような作品になるのだろうとも思った。

 映画を観て十日ほど経ってから、NHK日曜美術館での「田島征三 いのちのグリグリを描くの放映録画を観ていたら、80歳に年を重ねた今もセンジくんのことを語っていた。征三さんの話によれば、犯罪者の子供ということで差別されていたそうだ。校長に着せられた濡れ衣と暴力を傍観したまま怖気づいていた自分の情けなさについて話していた。後に一時期、画業そっちのけで環境問題に関する抗議活動に彼を没頭させた根っこには、このセンジくんのことがあったに違いないと思った。

by ヤマ

'20.10.19. あいあいビル2F



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