『酔いどれ天使』['48]
監督 黒澤明

 そう酔いどれにも思えなかった町医者の真田(志村喬)が最後で「人間に一番必要な薬は理性なんだよ」と語る本作は、ウィルス禍の不安に世情が混迷しつつある今、再見するに相応しい映画だったように思う。威勢だけの暴言をふるったり阿漕を通せることが力だと考え違いをしているような“顔役”の世界のろくでもなさを端的に捉えていた。その意味で『酔いどれ天使』とのタイトルは、ちょうど十年先立つハリウッド作品『汚れた顔の天使』['38]を意識してつけられたものなのだろう。結核菌よりもタチが悪いのは、法の外側で手前味噌な感情に任せて振るわれる暴力行為であることを描いた作品だという観方をすれば、まさに現今のウィルス禍において、粗暴で独り善がりな浅慮から他者を攻撃し傷めつけている輩のことが思い当たる。

 冒頭で麻酔もかけずに左手の銃創から弾を取り出す施術を堪えていた闇市ヤクザ松永(三船敏郎)にしても、腕は確かなのに己が“性分”のせいにして不遇を託っていた真田にしても、妙にいきがっているようなところがあって全く男というやつはろくでもないと思いながら観ていたら、損得勘定抜きで自分を気に掛けてくれる真田との関わり、親分(清水将夫)や兄貴分の岡田(山本礼三郎)の下衆っぷりを目の当たりにしたこと、ぎん(千石規子)からの「一緒に田舎に行こう」との口説きなどによって、改心の兆しを窺わせていた松永が、真田からは治癒の見込みがあると目されていた結核ではなく、廊下でのペンキ塗れの格闘という実に無様な刃傷沙汰によって命を落とすことになるという物語だ。戦後の闇市でヤクザが幅を利かせていた時代のさなかに撮られた、いかにも戦後民主主義的な理性主義を訴えた作品だったように思う。山本礼三郎の演じた刑務所帰りの岡田が始めのほうで湛えていたカリスマ性と、それがどんどん剥がれていくさまの描出がなかなか見事だった。最後は松永も岡田もほとんどチンピラといった態になっていたように思う。

 本作は、無論その名は知れども手元の観賞記録には記載がなく、未見かもしれないと思っていた作品なのだが、身振り手振りをしながら「ワァオ~」と♪ジャングル・ブギ♪を歌う笠置シヅ子のみならず、随所に見覚えのある既見作だった。おそらく十代の時分にTV視聴をしていたのだろう。三船敏郎の黒澤作品出演第一作だったらしいのだが、確かに声は三船だけれど、若いころの顔立ちはこうだったのだろうかと、少々意外にも感じた。もう七十余年前の作品となるわけで、まだ存命の出演者のいることが凄いと思えるくらい昔の映画でありながら、古臭く映ってこないところは流石だと改めて思った。
by ヤマ

'20. 4.29. DVD観賞


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