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『カツベン!』 | |||||
監督 周防正行
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素材もストーリーラインも悪くないのに、ドタバタ喜劇を志向しながらドタバタにならず、バタバタしているだけで笑えないのが致命傷のように感じた。役者がドタバタと弾んでなくて、計算づくのせわしい台本をこなそうとバタバタしている感じだ。 あれだけ贅沢なキャスティングをしながら、キャラ造形の魅力に乏しく、笑える軽みによる罪のなさに向かわず、ヤクザな安田(音尾琢真)にしても、スター弁士茂木貴之(高良健吾)にしても、橘館主(小日向文世)にしても、今や飲んだくれに落ちぶれている往年のスター弁士山岡秋聲(永瀬正敏)にしても、只のろくでなしに見えてしまう。 他にも「なんで銭形の名じゃないの」というような追っかけを見せる木村刑事(竹野内豊)にしても、またぞろの青木館主(竹中直人)にしてもそうなのだが、皆人がもう嘗てのような軽みを体現できる役者ではなくなっている気がした。だから弾まないのだと思う。 かつてなら嵌り役だったはずの徳井優や音尾琢真さえもがそうは映って来ない有り様に、映画というのは難しいものだなと改めて思った。赤塚漫画の警官のように矢鱈と撃ちまくる役をむかしの音尾琢真が演じていたら、きっと笑えた気がするのだけれど、どうも馴染んでこなかった。 素材もストーリーラインも悪くないと感じたのは、やはり国定天聲こと染谷俊太郎(成田凌)が継ぎ接ぎフィルムへの見事な“説明”で喝采を浴びるハイライト場面に、作り手の気概のようなものを感じたからだろう。あれは、明らかに「客は写真を見に来ているんじゃねぇ、俺の説明を聴きに来ているんだ」と豪語する茂木弁士と「確たるものとして出来上がっている写真には金輪際かなわねぇ、むなしい仕事だ」と嘆息する山岡弁士を受けての場面だ。 本作の作り手は、冒頭に登場する牧野省三(山本耕史)と最後を締める二川文太郎(池松壮亮)の二人の実在監督の配置を観るまでもなく、“説明【カツベン】”ではなく“写真【映画】”を撮る側の映画人だから、その写真と説明の関係への立ち位置の微妙さが、本作の醍醐味になっていたような気がする。稲垣監督の遺した言葉を引用したうえで、我が国固有の映画文化とも言うべき“カツベン”に敬意を払い、講談落語の流れを汲む日本の話芸を讃えていたわけだが、同時に、映画の神髄はやはり“説明”ではなく“写真”だとしている映画人の心意気を、国定弁士が朗々と語っている場面に僕は感じて、山岡とは違う意味で唸らされたのだった。 重要なのは、継ぎ接ぎ画像にタジタジとなった内藤弁士(森田甘路)と違って国定弁士が朗々と話を継いで「むなしい仕事だ」などと零していた山岡を唸らせたことよりも、恩ある青木館の主の窮地に浜本映写技師(成河)と二人で継ぎ接ぎフィルムを編集していたシーンでの「男と女が天に昇っていく場面はないかい?」だった。 確かに国定弁士は、他人の真似ではない“説明”を生み出すうえで、同じ素材の写真の説明でシリアス劇をコメディに変えて笑いを取り、拍手喝采を浴びていたが、“説明”によって“写真”など如何様にも変えられるからといって、どんな“写真”であってもいいわけでは決してないことをあの苦肉の継ぎ接ぎ編集場面は描いていたように思う。 出番に遅れた国定弁士に代って演台に立った内藤弁士が太刀打ちできないのは、初見であることと役者の顔が入れ替わり立ち替わりする表層に目を奪われて文脈を掴めないから、という要素が非常に大きいということを描き出していた気がする。つまり、一番大事なのは“説明”でも最早“写真”でもなく“文脈”であることを示していたのではなかろうか。俊太郎は、寸断されたフィルムを“文脈”で以て自分が継ぎ接いでいたから、朗々と語れるわけだ。 映画とは表層だと言ったのは、かの蓮實重彦だったように思うが、周防監督は、それに対して“文脈”だ、“編集”だ、と言っているように感じた。ここに至って“説明”は、同じ言葉でもカツベンではなく、批評とも読み替えるべきものなのかもしれない。同じ素材の映画が“説明【批評】”次第で異なって見えてくるというわけだ。そのうえで、観客が真に観るべきものは、“写真(映画)”の表層ではなく、“写真【映画】”の持つ文脈だと言っている作品のように映ってきたから、山岡とは違う意味で唸らされたということだ。だから、感心するとともに却って余計に無残が際立ってくるように感じられた。周防監督作品らしく真摯な気概も込められているのだけれど、肝心の映画自体が滑ってしまっては、むしろ仇にもなるように感じられて残念だった。 | |||||
by ヤマ '20. 1. 7. TOHOシネマズ1 | |||||
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