『ユリシーズ』(Ulisse)['54]
監督 マリオ・カメリーニ

 海神ポセイドンの息子だという一つ目巨人のポリュペモスの場面を観て、それまでもやもやとしていた既視感が確信に変わった。幼い時分にTV放映で観ているのだと思う。

 呪いによって故郷に戻れなくなったという設定だったように思うが、イタカの王にしてトロイ戦争の英雄として名高いユリシーズ(カーク・ダグラス)自身が漏らしていた“妻子のことを偲ぶ自分と旅と冒険を愛する自分”というのが実のところで、特段に呪いでも何でもないじゃないかという気がしなくもない運びだったように思う。そのなかにおいて、息子テレマコスを成した王妃ペネロペを永らく放置した間に、たっぷり蜜月を過ごしたキルケを魔女としたうえで、シルヴァーナ・マンガーノに二役で演じさせていたあたりが趣向としたものだろう。

 父親の顔をほとんど知らずに育ったというテレマコスと押し寄せる求婚者を撥ねつけ孤閨を守っていたペネロペは哀れだと思うが、キルケのみならず、記憶を失くして漂着した島の王女ナウシカア(ロッサナ・ポデスタ)からも想いを寄せられ、婚儀を構えるに至る厚遇を受けていたユリシーズは、波乱の冒険を存分に楽しんだあげく放蕩帰還して殺戮を繰り広げた身勝手な蛮人ではないかという気がしてならなかった。

 それゆえにか昔から「英雄、色を好む」などと言われるのだろうが、ユリシーズを観ている限り、英雄などというものは、ろくなものではないとしか思えない。ヒーローが称賛される文化というのは、古今東西に溢れているが、そもそもが強者の論理であって、歴史がそれを記述する権力者によって意味づけ価値づけられたうえで教えられるものであるなかで育まれたものだという気がしてならない。

 それが、古代ギリシャのホメーロスの昔から脈々と継がれている人間社会の文化の根幹にあるものだとすれば、世にあまねく平和や安穏が行き渡る時代というのは、人間社会には約束されていないような気がしてくる。そんなふうに思うところからは、少なくともヒーロー礼賛に与したくはないとの思いが生じるのだが、幼い孫たちの触れる物語の悉くがヒーローもの戦闘ものになっている現状が嘆かわしい。映画『ドラえもん』の世界ですら戦闘が現われるようになって衝撃を受けたのは、息子たちがまだ幼かったもう随分と昔のことなのだが、その時分から少女キャラクターものにおいても戦闘物語が目白押しになってきたような気がしている。

 人々が「守る」という言葉の元に、ひたすら攻撃に勤しむ好戦性に馴染んでくることで密かにほくそ笑んでいるのは、いったい誰なのだろう。

by ヤマ

'20.12.12. BSプレミアム録画



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