『カランコエの花』をめぐって
アーツカウンシル高知」:Saito Tsutomuさん
ヤマ(管理人)


【facebook メッセージ】2019年02月11日 21:15 ~2019年02月15日 15:54

(Saito Tsutomuさん)
 カランコエの花』の感想を読みました。「ご意見、ご感想お待ちしてます!」とブログの最下部に書かれていたので、少し僕の感想を送ります(笑)。

ヤマ(管理人)
 ありがとう。最近はけっこう珍しいことなので、かなり嬉しい(礼)。

(Saito Tsutomuさん)
 板書した子の気持ちについて解せる答えが見つからなかったと書いてますが、“存在自体の否定”というよりは、抗うことのできない自分自身への“承認欲求”なのでは? と思ってました。またそれを消されたことによって、無意識の差別(蔑まれている)を再認識し、その場から逃げた?

 僕もうまくは咀嚼できてないんですが、ラブホテルの話は確かにそういう受け止め方も可能ですね。その恋愛ロジックにLGBTを乗せることでより近い話題になるというとこが脚本のうまさなのだと思いつつも、もし置き換えがこのクラスに部落の人間がいるらしいとなっても、恋愛と同じ構図ができると思います。ただ、違うのは板書をした子は自分の意思でその境遇にあるのと、産まれながらに自身の意思とは違う形で持ってしまったもの、ということが本質的にかなり違うとこかな? と思ってしまいました。

 置き換えとしてはこのクラスに天皇家の血筋の子がいるらしいこのクラスに少年院に入ってた子がいるらしいなどプライバシーに関わることであれば成り立つけど、たぶん天皇家の血筋の子が板書しても、それを消す行為にはいかないのでは? 少年院の子は何かしら自分の意思で過去に犯罪を犯したのであれば、それを受け止める覚悟もできているかもしれないかも? そういうことをいろいろ思うと、ラブホテルとレズビアンは本質的に意味合いが違うのかな? と思いました。

 あと、ヤマさんもそう思ってるのかどうかわかりませんが、僕は裕也は桜が好きだった、という思いで観てました。思春期の男の子における“好きな女の子がレズだった時の感情の流れ”だったのかな? と。そして、そのように観た場合の裕也の感情の流れも「レズなのか、ラブホテルなのか」ではかなり意味が変わる気がします、レズなら自分は恋愛対象にならないですからね。

 長々とすみませーん!自分の意見が正しい!とも思ってないので、読み流してくださいませ。

 あと、この映画は何となく、最近やってた「アイムヒア プロジェクト」にも近いのかな? と思ってたり。プロジェクト名の“アイムヒア”は、“わたしはここにいる”という意味。見えない問題を無いことにさせないために。

ヤマ(管理人)
 そのプロジェクトは、全然知らずにいた。紹介してくれて、ありがとう。


-------置き換えについて-------
ヤマ(管理人)
 置き換えが「このクラスに部落の人間がいるらしい」となっても、恋愛と同じ構図ができるというのは、そのとおりだと思う。というか、LGBTと同じく共に差別事象として現れてきていることだから、ある意味当然だけどね。拙日誌の記述に当て嵌めると自習時間を使って“部落差別”についての授業が行われた後、「このクラスに部落の人間がいるらしい」と騒ぎ立てる者がいて…と展開して、板書とその板書を消す行為というものは、決して起こり得ないものではない。その際の板書者の思いということで言えば、むしろ僕としては汲み取りやすいものがあるような気がする。までは同じだな。

 その後の「裕也が洋太に食って掛かることの意味合い」ということでは、僕が意味合いの映り方が変わってくるのところで想定していたものがまさに Saito さんがお書きの「裕也は桜が好きだった」なんだよね。ということは即ち本作では、僕はそうは観ていなかったわけで、前段に記してあるいないはずの者がいた、しかも引き出した契機は自分にあるかもしれないとなると、その板書が事実かどうかの確証の無いものであっても、激しい動揺と後悔が湧いてくるわけだという捉え方を僕に促したものとして“洋太に食って掛かることの意味”を受け取っていた。無論どっちが正しいというような話ではないよね。その両方というのだって、当然にしてあり得るし。

 で、部落差別の場合だと、やはり僕的には本作同様に自分のなかでは、桜への恋愛感情以上に“自分の引き出した思い掛けない事態”のほうに傾くから置き換えによる差異が殆どなく、少年院でもそれは同じだなぁ。要は、マイノリティ(差別)刺激のあるものか否かが、異性愛への置き換えとの違いなのだから。ただマイノリティではあっても天皇家の場合は、通常「差別」とは結び付かないだろうから、そもそも月乃の“消し”そのものが生じてこない感じがあるように思うので、その点は、Saito さんと同じ。

 指摘してくれた違うのは板書をした子は自分の意思でその境遇にあるのと、産まれながらに自身の意思とは違う形で持ってしまったもの、ということが本質的にかなり違うとこかな?については、桜が、己が自覚しているレズビアン性向を自身において、どちらのものとして意識しているかがそもそも一概に言えない面を含んでいるけど、部落差別とも同じ差別(無理解)の上に立っての違いということでは、かなり有意な差異だとは思う。でも、元々僕の問題意識のなかでは、同じ差別の上に立ったなかでの置き換えというのは想定外なので、本作においては、僕が重きを置く点にはならないかな。


-------裕也の真情-------
ヤマ(管理人)
 洋太への食って掛かりについて思春期の男の子が好きな女の子がレズだった時の感情の流れだったのかな?と。との観点は、僕にはなかったものなので、かなり新鮮。それはレズなのか、ラブホテルなのか、ではかなり意味が変わる気が。ということからは、レズの場合だと“桜にぶつけたい不本意の洋太への八つ当たり”ってこと?

(Saito Tsutomuさん)
 僕の観た感想としては、あの教師の癖によって、裕也はクラスにLGBTがいることを「確信」していると思ってました。ので、板書を見たときの動揺はいないはずの者がいた、しかも引き出した契機は自分にあるかもしれないというより、LGBTの当事者が「桜」だったことに動揺したのだと思いました。そして、保健室での洋太とのやり取りで裕也は好きな女の子がいる雰囲気から、あのシーンで「あー、桜が好きだったのか...」という気持ちになりました。
 好きな人がレズだった、ということと、自分があぶりだして無意識に蔑んでいた対象が好きな人だった、好きな人を蔑んだ感じにからかう洋太がいる、好きな人は守りたい、でもこれまで自分がやっていたことは洋太と同じこと、という無限ループのような感情が「裕也が洋太に食って掛かること」として理不尽な行動になったのでは? と思い、涙が止まりませんでした。

 観終わった後に蛇足的に思ったのは、もしかすると裕也はLGBTが桜ではない、という確信が欲しくて本人探しをしていたのかも? とも思いました。もしかするとそういう空気を感じてて、でもそうでないと思いたい気持ちの裏返しとか? ま、これは本当に妄想に近くなりますけど(笑)

ヤマ(管理人)
 解釈的には裕也はクラスにLGBTがいることを「確信」しているというところは、我々のなかでの大きな違いだね。
 裕也が「確信」していてあれを言い出すのは少々悪質な気がするけど、無自覚の一端なのかもね。あのとき彼は、レトリック的には「俺たちのクラスだけで小嶋先生が授業をしたのは…」って言ってたけど、「だけ」なのは偶々できた自習時間を利用してのものなれば特段の事情があるとは限らないのも自明だし、僕は「確信している」とは思わないけれども、そういう観方もできるとは思う。同じく「あー、桜が好きだったのか...」についても。

 ただ本作は、恋愛に材を得つつも、主題的にはやはりマジョリティ・マイノリティについての作品だと思うから、僕はその観方には乗らないけれども、普通にそう見えても全くおかしくはないね。
 そのうえで、無限ループによるある種の錯乱が、洋太に対する食って掛かりとして現れたというのは、場面解釈として不自然なものではないどころか、裕也が桜に対して恋愛感情を抱いていたとする前提からすれば必然とも言うべき解し方で、何ら破綻はない気がする。
 もっとも「蛇足的」の部分については、(まだ付き合ってもないと思われる)裕也が桜に対してそういう空気を感じてて、でもそうでないと思いたい気持ちを抱いていたってことだから、これには与しがたい気がするけどね。それはないとまでは思わないが。

 ともあれレズなのか、ラブホテルなのか、ではかなり意味が変わる気が。ってことこそが、僕がHPにアップした日誌のなかで最も言いたいことだったので、そこのところに反応してもらえて嬉しかった。ありがとね。


------自ら板書したのは何故か-------
ヤマ(管理人)
 桜の板書の動機を抗うことのできない自分自身への承認欲求と観た場合、誰からの承認を桜が求めての板書かという点が重要になるよね。元々言い出しかねながらも、桜は月乃に告る気持ちを持っていたのだから、彼女に対する承認欲求はあるわけだけれども、それなら板書という方法じゃない気がしてならなかったわけ。
 じゃあ、「クラスのみんな」ってことになるのか、といったとき、LGBTを抱えている人がそういう形の承認欲求の発露としての板書などということをするだろうかとの疑問があって、承認欲求というものを板書の動機とすることを放棄したようなところが僕にはある。
 でも、結果としてそれを消された事によって、無意識の差別(蔑まれている)を再認識し、その場から逃げた?という受け止めをしたとの Saito さんの解釈については、僕も差別どころか「抹消」とまで受け止めているわけで、だいたい同筋の解し方のように感じた。
 もう一つ僕の想念に浮かんだ桜の板書の動機は、承認とか何とかではなく、クラスが疑心暗鬼で騒然となっている状況が耐え難くてケリをつけたくて、というものだったんだけど、そのためにそこまでするものだろうかと今一つ気乗りがせず、その結果自分なりに解せる答えが見つからなかったと記した次第。承認欲求というのは、先ず俎上にくる動機なので、僕も想定したんだけどね。

(Saito Tsutomuさん)
 この誰からの承認を桜が求めての板書かという点については、ヤマさんと同じく月乃への承認欲求だと思います。あのバス停で言いだそうとするものの、桜はやはり言い出せなかった。直接言って拒否されたらどうしよう? その場でどう取り繕えばいいのだろう? という不安などからだと思います。
 それがあったので、間接的に試してみたのがあの板書なのかな? と。クラスの誰かが書いたかもしれない、嘘か本当かわからない板書を見て、月乃がどんな反応をするのか見たかったのでは? と思いました。そして、まさかの月乃が真っ先に反応して消してしまう、という行動に、直接的な拒否以上のショックを受けたのではないかな? と。

ヤマ(管理人)
 誰が書いたともしれない、嘘か本当かもわからない板書を見て、月乃がどんな反応をするのか見たかったのでは? というのは、確かにあり得るね(成程)。自分で言い出さない限り、誰も桜自身が書いたとは思わないはずだものね。

(Saito Tsutomuさん)
 その意味からも誰からの承認を桜が求めての板書かという点については、月乃への承認欲求だと思います。あのバス停で言いだそうとする桜は、たぶん自分自身に真っすぐ正直な女の子なので、クラスが騒然となっている状況なんてどうでも良かったと思ってます。もう恋する乙女は、好きな女の子のことで四六時中頭のなかがいっぱいで、直接確認するのは怖いから、間接的に受け入れる人かどうかを見たかった、というのが僕の観た感覚でした。

ヤマ(管理人)
 クラスのことまでは眼中にないはずだというのも同感。僕がそのためにそこまでするものだろうかと今一つ気乗りがせず採用しなかったのには、そういう感じが作用していたのかもしれない。

(Saito Tsutomuさん)
 この映画はちょっと田舎の高校生という設定がいいんだろうなと思います。みんな無垢で純粋で自分の意思があって。それゆえにこれまでに体感したこともない、親や教師ですら明確な答えが出せないLGBTということに向き合ったときの空回り(?)のすごさとか。これを都会の高校生が観るとどう感じるのかな? と思ったり(笑)

ヤマ(管理人)
 そうだね。ちょっと桐島、部活やめるってよみたいな感じだよね。
 ところで、先にあの教師の癖によって、裕也はクラスにLGBTがいることを「確信」していると書いてた「癖」というのは?

(Saito Tsutomuさん)
 担任の癖ですね。歴史の授業か何かで、応仁の乱? に対する三択問題で黒板前で悩んでいる生徒がいるときに担任は嘘を言うときに必ず鼻を触る「癖」があるという生徒のこそこそ話があり、黒板前の生徒は先生に全ての答えに「いいえ」で答えて!というやり取りをし、鼻を触った答えに〇をし、見事に正解したのですよ。
 そして担任がこのクラスにLGBTの生徒がいるという噂がありますが、そんなことはありませんと言ったときに鼻を触り、裕也はマジかよと言うので、この時点で確信してるはずなんですよね。
 あ、でも、これ書きながら思ったのは、最初の保健の代理授業の後から裕也はこのクラスにLGBTがいるんじゃね?ってところからスタートしているので、確信後に言い始めたわけではないから、僕の言ってたことも少しズレますね...。

ヤマ(管理人)
 壬申の乱、承久の乱、応仁の乱っていう三択だったかな、確かにあったけど、Saito さん自身が書いているように、裕也のこのクラスにLGBTがいるんじゃね?というのは、それよりも前の時点だったね。でも、板書を目にした時点よりは前だから、先に書いてたので、板書を見たときの動揺は「いないはずの者がいた、しかも引き出した契機は自分にあるかもしれない」というより、LGBTの当事者が「桜」だったことに動揺したのだと思いました。ということとのズレは生じてないよ。
 ま、僕自身の問題意識は、裕也のこのクラスにLGBTがいるんじゃね?という発言は、むしろ「いないと思ってる意識」が言わせたものだという点にあって、「いないはずの者がいた」ことを教師の癖で知らされようが、板書で知らされようが、そう大きな差はないけれどもね。ただ洋太への食って掛かりの意味は、かなり違ってきて、LGBTの部分よりも桜の部分のウェートが増してくる気がするね。

(Saito Tsutomuさん)
 そうですね、裕也のように「いないと思っている意識」が実は一番LGBTに対して辛い状況なのでしょうね。あの短時間でここまでの多面性を描いているあの映画は、やはり秀逸だと思いますね。

ヤマ(管理人)
 同感!
by ヤマ

【facebook メッセージ】2019年02月11日 21:15 ~2019年02月15日 15:54



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