『ロープ/戦場の生命線』(A Perfect Day)['15]
監督 フェルナンド・レオン・デ・アラノア

 半世紀前の十代の時分にPPMの歌声で僕が知った、ピート・シーガーによる'50年代半ばの著名な反戦歌花はどこへ行ったをエンディングに流しながら、'90年代半ばのバルカン半島の紛争地域でのNGO(非政府組織)による国際援助活動を二十年後となる2015年に映画にしたのは、何を意図してのことか、いろいろ考えさせられるところがあった。

 チラシに記された“知られざる英雄たち”との言葉が、いささか皮肉っぽく映るほど、本作中での「国境なき水と衛生管理団」は、現地の牛追う老婆に助けられることはあっても、現地の誰をも救えず、ロープひとつ店では売ってもらえず、その調達に苦労する全く冴えない姿を晒していた。

 チームリーダーと思しきマンブルゥ(ベニチオ・デル・トロ)に至っては、身から出た錆とはいえ、女性関係のルーズさをビー(ティム・ロビンス)ら仲間内で冷笑されていたり、現地で縁の出来た少年が大事なサッカーボールを年嵩の少年たちに強奪されたと思って取り返してみても、思惑外れで売り渡したものだったりして、実に精彩を欠く。

 後ろ盾もなく強権力も持っていないNGOゆえに、井戸に落とされた死体の始末ひとつ出来ないくらいだから、井戸水が使えなくなって水に困った住民にタンクローリーで運んできた水を売ってこすっからい儲けを貪る連中に対処する術もなく、横目で睨むだけだ。

 自分たち自身でも、いったい俺たちは何をやっているんだろうなと自嘲的にならざるを得ないであろう徒労に近い“貢献活動”を観ながら、だがしかし、それゆえにこそ命の危険にも晒された援助活動に従事する彼らの姿は尊いように感じた。今までに、ほんの数回、国境なき医師団にささやかな寄付をしたことはあっても、国境なき水と衛生管理団というものがあることすら知らなかったから、ソフィ(メラニー・ティエリー)が「A Perfect Day…」と呟く、井戸からの死体引き揚げ作業以上に過酷な作業の要請を受けた日に、折しも訪れた激しい降水による最悪と最善に同時に見舞われていた顛末が沁みてきた。避難所の大量の難民の排泄で詰まった汚物を溢れさせる雨は、他方で、あれだけ引揚げに難儀した井戸の死体を、事も無げに浮揚させるわけだ。

 人の営みなど自然の猛威の前には微々たるものでしかなく、徒労などと言いだせばきりのないことで、重要なのは徒労であるか否かではなく、徒労感にめげないタフさであって、それこそが尊いのだろう。綺麗事がどこにもないゆえに、実に美しくて冴えないというちょっと珍しい物語だった。

 そして、このような物語を何ゆえ今世紀になってから映画化したのかという点では、グローバル・スタンダードの名の下に世界を席巻している口実としての成果主義、効率主義に対する異議申し立てがあるような気がした。ロープ一筋の調達を巡ってのこれ以上はないと思われるほどの効率の悪さや結果を出せないでいる体たらくを敢えて映し出していたのは、現代社会において成果主義・効率主義によって歪められ損なわれているものが余りに大きいゆえではなかろうか。その反成果主義といったところを想起させるうえで必要な配役がオルガ・キュリレンコの演じるカティヤだ。彼女が活動評価員として登場している意味は、そこにあるわけで、単にマンブルゥの痴話ネタのためだけに配されているはずがない。

 旧知の映友が「カッコ悪いってなんてカッコいいんだろう」という大好きな言葉を、紛争地域でのNGO活動家の生き方で描いてくれた作品だと評していたが、彼らに全く気負いのないところがいい。もっとも、気負っていてはとてもではないが続かなくて、折れてしまうに違いない。肩の力を抜くというのでもなく、非日常が日常になってしまっている人の自然体のようなものを得も言われぬ納得感とともに伝えてくれていた気がする。こういうものなのだろうなぁと思った。そのうえで、きちんと汚物処理に向かったのだろうから、やはり彼らはエライと言う他ない。世のお偉いさんには絶対にないだろうと思われるような本当の偉さだという気がする。
by ヤマ

'19. 8.21. 美術館ホール



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