『聖なる泉の少女』(Namme)
監督 ザザ・ハルヴァシ

 僕が最初に観たグルジア映画は、大学卒業後に帰郷して間もない'81年に県民文化ホールで観た『ピロスマニ』監督 ゲオルギー・シェンゲラーヤ)で、僕の好きな緑色の美しさと画面に宿った不可思議な味わいとに魅せられた覚えがある。以来、何作か観たグルジア映画にも共通してある種の不可思議な味わいというものがあるように感じていて、僕のグルジア映画イメージを形成してきているようなところがある。

 そういう意味では、本作もまた紛れもなくグルジア映画だと膝を打つような作品だった。熾火に息を吹きかけると神木のような木の枝に灯が点る場面が繰り返されたのが印象深く、物理的に合理性のある儀式にも幻想的な神秘にも映る両義性がミソだったような気がする。そうして、ここがエンディングかと思った静謐で幻想的なイメージのカットの後に、現実感に満ちていながら妙に美しいショットが、強い音の連打とともに暴力的に現れた。あれは、なんだったのだろう。無音のエンドロールのなかで余儀なくされた反芻において浮かんだのは、やはり聖なる泉に住まう不老の魚と巫女まがいの娘ツィナメ(マリスカ・ディアサミゼ)と水の関係だった。

 人声の入らないオープニングからの時間が延々と続くなかで、ナメが鯉のような白魚に聖水を擦り込むように撫でていたが、中盤で彼女が湯浴みしている姿に白魚の精を見たような気がして、白蛇抄を想起した。その水と祈りによる治療などというのは、非科学性の最たるものではあるものの、プラセボ効果などということを思い合わせると、医療不信に囚われたなかで受ける現代医療とナメ父娘の行う民間療法とにおいて、真に人にとって必要なものは何なのかを思わずにいられないところがあった。

 科学の進歩によって得たものと失ったもの、宗教ゆえに得るものと失うもの、ナメの家族たる父兄三人の帰依する宗教がそれぞれ異なり、一人の兄は科学を信奉する職にあるという設定が意味深長だ。触発力豊かな画面によってイメージ的な形で様々な思いや感情が喚起されるところに感心した。映画的豊かさというのは、こういうものを指すような気がする。

 監督・脚本を担ったザザ・ハルヴァシは、僕と同い年というか同学年生まれになるのだが、祖国というまとまりを信じることで、個々の心情はそれぞれであっても繋がれるという国家観が新鮮だった。思えば、僕のなかには彼の示した国家観と同質のものとしての“同じ学び舎で過ごした同窓生”というものがあることに気づかされたように感じる。

 所用で上京した日程と偶々折が合って、案内を貰っていたマスコミ試写で観ることができ、随分と久しぶりにパンドラ【配給】の中野理恵さんとの再会にも恵まれ、巡り合わせのようなものも感じた。既に東京国際映画祭で上映されている作品で、そのときのタイトルは、『泉の少女ナーメ』だったそうだ。
by ヤマ

'19. 5.14. 東京テアトル試写室



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