『コキーユ 貝殻』['98]
監督 中原俊

 先ごろ四十年ぶりの大学祭探訪に上京した際に、二十年ぶりのゼミ会を設けてもらって、友人たちの活躍ぶりに感心したばかりのところだったから、中学卒業以来三十年ぶりの同窓会で、という趣向の二十年前に撮られた本作を観る機会が十八年ぶりに得られて、ひときわ感慨深かった。

 十八年前に綴った映画日誌の末尾に傑作だと声高にとりたてるのではなく、胸のうちのお気に入りファイルにそっとしまっておきたくなるような映画だったと記しているとおりの作品なのだが、本作を想起すればセットになって思い出すことがあって、個人的に特別な映画になっている。

 再見してみると、“卒業アルバムの表紙にあった1967の文字”に掛けて、その年の末に沸き上がった佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争の話や岡林信康の唄などが折り込まれている作品だったことに改めて気づかせてもらったように思う。当時の映画日誌に綴ったように、まさしく“主題が恋以上に記憶であるという大人の映画”なのだ。

 黒田課長(深水三章)のくだりはそのためにあるようなもので、加えて、浦山(小林薫)が中学生のときに大学生だったと思しき黒田が感激したと彼に漏らしていた、四時間も待っていてくれた女性の姿が、三十年前に中学生の浦山(植田真介)を橋の上で待っていた直子(浜丘麻矢)の姿と時間に重なるわけだ。

 当夜のミニ上映会は、既に五十路を過ぎている者が殆どの男女七人で観たのだが、直子(風吹ジュン)のように過去の想いに囚われ続けるのは、黒田のように男にありがちなことで、女性にあっては珍しいことなのではないかと投げ掛けてみた。「恋心は引き摺らないけれども、恨みは決して忘れないものよ」との女性の声になるほどと首肯したものの、思ったほどの反応はなかった。

 この、どこか男の側の願望と感傷がせつせつと美しく織り込まれた作品には、三人おいでた女性たちからは、もう少し批判的な意見が出るのではないかと思ったのだが、さすがに皆さん年季を重ねておいでで、実に鷹揚で感心した。

 上映会の作品選定をした、本作を愛好する牧師さんからは、その後の遣り取りで「この映画は男の幻想、ノスタルジーだ」とも言われたが、願望と感傷ではあっても幻想だとはしたくない想いが僕にはあって、一片の、しかも重要な真実が本作にあると思っている。それは、むかしの映画日誌に記したおそらく直子は、谷川(益岡徹)の目に映った直子とはまるで別人の姿で浦山の前では存在することができたのだろう。それは装うとか偽るとかいうことではなく、浦山といるとそういう直子になれるのだ。それが女というものではないのかと思う。そして、そのことが自分でもたまらないほど嬉しく、愛しく、癒されていたに違いない。という部分だ。これを幻想とは言いたくないなぁと伝えると、笑って受容してくれた。
by ヤマ

'18.11. 9. 高知伊勢崎キリスト教会



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>