『終わった人』
監督 中田秀夫

 失うことで得たものがあることを示す最後の場面を観ても判るように、作り手にあるのは、人生ゼロサムだということなのだろう。それについては、僕も「何かを得れば何かを失うのが人生だ」と、かなり若い時分から思ってきた節があるのだが、「そんなことを言えるのは、お釣りがくる側でしかないよ」というのもまた、よく言われることのような気がする。

 東大卒でメガバンクに就職し、役員コースからは落ちたものの関連会社の専務取締役を長らく続けて退職することに不本意が残っていた田代壮介(舘ひろし)の人生を観ていると、確かに、どう生きたところで足るを知らねば不満は残るし、足るを知りさえすれば、大概の人生には満足できるのではないかと思う。しかし、人の生き甲斐の絶対的尺度が“満足”にあるともまた言えない気もする。

 壮介が退職してからの浮沈の激しさは、おそらくは在職時以上の変化だったろう。職安ルートの求人面接で落ち、妻(黒木瞳)に「学歴が邪魔をした」と零していたような潰しの利かなさの一方で、ICTベンチャー企業の常勤顧問職が舞い込んできたりしていた。そのような浮沈の激しさは、誰しもに訪れるものではないのだが、退職したら刺激も変化もないとは限らないということなのだろう。

 思った以上に面白く観たのは、再雇用で職に就いているからあまり実感がないものの、僕自身が既に定年退職を経験しているからだろうか。特に前半の展開に関しては、古くからの友人にちょうど有名大企業を退職した東大卒の奴がいて、彼から“余裕のできた時間の過ごし方”について「やっぱり自分には勉強しか取り柄がなさそうだから、司法書士の資格取得に挑戦してみようかと思う」と数年前に聞いたことを思い出した。当時「お前なら、そんなのさして難なく果たせるんじゃないか」と言った覚えがあるが、そんな生易しいものでもなかったようだ。そうこうしているうちに恵まれた初孫の世話や歳の離れた次女の大学受験指南を口実に、資格取得のための勉強からは遠ざかっているようだから、過ごし方の折り合いのつけ方は既に学習しているらしい。

 僕が再雇用のフルタイムで働いているのは純粋に経済的事情からであって、そうでなければ、仕事とは異なるコミュニティでの関わりを深めたい思いや自身のこととして傾注してみたいことがあるので、職業を要するわけではない。勤労収入がなくても生活していけるだけの貯えなり、不労所得があるわけではないので、やむなく仕事に就いているのだが、そういうものがなければ、無聊を託つのは想像以上に過酷なもののようだ。本作に即して言えば、妻名義にしていた住家を除いてなお八千万円ほどの個人資産を保有していても、ハローワークにまで足を運ぶほどに“雇われ仕事”を必要としていたことになる。壮介の台詞にあったように“社会から必要とされていない疎外感”に苛まれるということなのだろう。何をもって「終わった」とするのか、足るを知るよりも場合によっては、困難なのかもしれない。そして、田代壮介にしてもメガバンクの役員コース落ちや、出向先でも専務取締役止まりといった形での定年退職でなければ、妻の反対を押し切ってまで社長業に手を染めたりはしていないような気がした。
 
by ヤマ

'18. 6.24. TOHOシネマズ6



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