『羊と鋼の森』を読んで
宮下奈都 著<文藝春秋 単行本>


 三年前に映画化作品を観た際に非常に映画的な世界だったので、これをどのように文字にしているのか、原作を読んでみたい気になったと記していた小説だ。

 とりわけ気に入ったと言及していた佐倉和音(上白石萌音)の鍵盤を奏でる手指が森の池の水面を撫でるように映し出されていた場面は、小説に演奏の描出はほとんどなくあっさりしたものだったが、音楽が始まる前からすでに音楽を聴いていた気がした。今このときにしか聴けない音楽。和音の今が込められている。でも、ずっと続いていた音楽。短い曲を弾く間に、何度も何度も波が来た。和音のピアノは世界とつながる泉で、涸れるどころか、誰も聴く人がいなかったとしてもずっと湧き出続けているのだった。(P174)とあるなかの「泉」という形で、由仁のピアノは魅力的だった。華やかで、縦横無尽に走る奔放さがあった。人生の明るいところ、楽しいところを際立たせるようなピアノ。対して、和音のピアノは静かだった。静かな、森の中にこんこんと湧き出る泉のような印象だ。これからどうなるのだろう。ふたりのピアノがひとりのピアノになって、それでも泉は泉でいられるのだろうか。(P173)との外村の想いに対する回答として提示されていたような気がする。

 そしてそれは、由仁がピアノを弾けなくなる前、ふたりの連弾に外村が心打たれた音の粒がぱっと広がった。くるくるくるっとした曲だった。何という曲なのか知らない。ふたごたちはいきいきとしていた。黒い瞳からも、上気した頬からも、肩先に垂らした髪の先からも、生きるエネルギーが立ち上るようだった。そのエネルギーを指先に変換してピアノに注ぐ。それが音楽に生まれ変わる。たしかに楽譜があって、そこに必要な音符が書かれているのだろうけれど、奏でられる音楽は完全にふたごたちのものだった。今ここで聴いている僕のためのものだった。(P48)という場面に呼応するものだったように思う。

 原民喜による明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体との一節は、原作小説においてもとても重要なもので、P57,P148と繰り返し出てきていた。映画化作品も原作小説も共にそれに相応しい作品だったように思う。

 十七歳のときに板鳥調律師(映画化作品では三浦友和)の調律作業に出会ったことで、音楽ではなく、音の響きの美しさを知ることにより“美への目覚め”を得、ピアノに出会うまで、美しいものに気づかずにいた。知らなかった、というのとは少し違う。僕はたくさん知っていた。ただ、知っていることに気づかずにいたのだ。(P19)という外村の美の森への探訪記とも言うべき作品を読みながら、“ほんとうに素晴らしい音、心が震えるような音と出会う可能性”(P102)の掛け替えのなさというものを改めて思った。

 僕は、外村とはむしろ正反対の小器用で要領の良さが際立つほうらしいが、あまり欲がないと観られることが多いなか、柳調律師(映画では鈴木亮平)が言ったときどき思うんだが、外村って、無欲の皮をかぶったとんでもない強欲野郎じゃないか(P121)と同じようなことを言われた覚えがあり、少し感慨深いものがあった。何について言われたことだったのか最早さだかではないけれども、生きるうえで求めているものというような意味合いだった気がしている。それは、映画観賞に喩えて言えば、僕が評判の高い映画や名作を追うことへの貪欲さをついぞ見せない一方で、ジャンルを問わず何でもかんでも観ようとしていることで、個別の作品鑑賞に留まらない“映画そのものへの造詣”を求めているように見えると言われたことがあるようなものなのかもしれない。どちらにおいても、そんな御大層な思いを抱いているわけではないのだが、人によっては、そのように映るようだ。

 ただ人生にしても、映画観賞にしても、以下の一節は音楽に限らぬ真理だとの共感を覚えた。曰く音楽は人生を楽しむためのものだ。はっきりと思った。決して誰かと競うようなものじゃない。競ったとしても、勝負はあらかじめ決まっている。楽しんだものの勝ちだ。(P146)、そしてホールでたくさんの人と聴く音楽と、できるだけ近くで演奏者の息づかいを感じながら聴く音楽は、比べるようなものではない。どちらがいいか、どちらがすぐれているか、という問題ではないのだ。どちらにも音楽のよろこびが宿っていて、手ざわりみたいなものが違う。朝日が昇ってくるときの世界の輝きと、夕日が沈むときの輝きに、優劣はつけられない。朝日も夕日も同じ太陽であるのに美しさの形が違う、ということではないだろうか。(P147)

 ピアニストを目指すことにした和音の言うピアノで食べていこうなんて思ってない…ピアノを食べて生きていくんだよ(P175)の意味するところもまた、柳の言う“強欲野郎”なのだろう。そして、ピアノの食べ方には、昇る朝日もあれば、沈む夕日もあるということのような気がする。
by ヤマ

'21.12.29. 文藝春秋<単行本>



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