「巨匠が描いた明治」  「これぞ暁斎!」展 関連企画

Aプログラム
『婦系図(総集編)』['42] 演出 マキノ正博
『吾輩は猫である』['75] 監督 市川崑
Bプログラム
『歌行燈』['43] 演出 成瀬巳喜男
『春琴物語』['54] 監督 伊藤大輔

 美術館の企画展示「世界が認めた幕末・明治の絵師-これぞ暁斎!」の関連企画としての「巨匠が描いた明治」ということでは、戦中と戦後の“昭和の時代に描いた「明治」”ということになる。戦中でも戦後でも昭和なれば、ともに既に明治は遠い時代なのだが、Aプログラムの二作を隔てる三十年余りで、随分と話の仕方と言葉が違ってきていることが際立っていて、なかなか興味深かった。

 僕は、山田五十鈴をいいと思ったことが余りないのだが、『婦系図(総集編)』でお蔦を演じた彼女には大いに魅せられた。得も言われぬ“健気な色気”というものを初めて感じたような気がする。また、早瀬主税(長谷川一夫)をスリ稼業から更生させた酒井俊蔵(古川緑波)の人物造形がなかなか面白かった。「馬鹿は仕方がないが、薄情は我慢ならない」と言う酒井がなにゆえ早瀬とお蔦の仲を裂いたかを病床のお蔦に詫びる場面が白眉だった。気の病が生気を奪い、本当に死に至るものとしてあった時代の物語だとも思った。

 酒井の計らいで遠地に赴任する早瀬を見送りに来たお蔦が、酒井の娘の妙子(高峰秀子)の姿に怯んで早瀬にまみえることなきまま発車した列車を追って駆け出す場面のジャンプカット的な編集に、戦時中の作品とは思えぬモダンさを感じ、さすがはマキノだと感心した。妙子の生母を演じた三益愛子もなかなかよかった。

 続いて観た『吾輩は猫である』では、“無能無欲の上等”を説く吾輩【猫】の不慮の顛末に、誰の人生にも相通じる“生の儚さ”が込められているような気がしたが、漱石の名高い同作を遠い昔に読んだときに感じた“ある種の他愛なさ”が映画化作品にも宿っているように感じられたのが可笑しかった。虚子にまつわる「行水の女にほれる烏かな」という句による俳劇の話などあったろうかと帰宅後、書棚の文庫本を確かめてみると間違いなくあってちょっと感心した。雪江を演じた島田陽子の“清楚な色香”に観惚れながら、面持ちの柔らかみをふっくらした顔立ちで醸し出していたこの頃が最もいいような気がした。


 日を違えて観たBプログラムもAプログラムと同様に、それぞれ戦中と戦後の昭和の時代に製作された作品のカップリングだ。戦中作品の『歌行燈』はAプログラムと同じく、山田五十鈴が芸妓の役柄で登場する泉鏡花原作の映画だったが、『婦系図(総集編)』以上に、鏡花らしい摩訶不思議の縁と芸事に彩られていたように思う。

 戦後作品の『春琴物語』は、Aプログラムの『吾輩は猫である』と比べると二十年古い'50年代の映画だけあって、戦後作品の趣があまりなかったように思うが、それには夏目漱石と谷崎潤一郎という原作者の差異によるもののほうが大きいのかもしれない。佐助を演じた花柳喜章が『歌行燈』の喜多八(花柳章太郎)に雰囲気が似ているように思ったら、どうやら実の親子らしい。春琴を演じた京マチ子が、実にキャラクターに似合っていて感心した。


 泉鏡花原作の二本の戦中作品を観て改めて思ったのは、明治の時代というのは、“法治よりも人治が社会の規範として人の身を縛っていた時代”であるということだった。法より信用を旨とする人治の要は“義理(筋)と人情”であって、義理において上位にある者が何よりも汲まなければいけないのが人情なのだが、その人情の汲み方に義理なり筋なりが絡んでくると、その判断は法的判断などよりも遥かに複雑微妙で難しいケースバイケースのものとなってきて、おいそれ是非の問えないものになる。

 権力的影響力を有する者に求められるのは、それに堪えうる“器量”なのだが、お蔦と早瀬の幼時からの深い縁までは知らなかった『婦系図(総集編)』の酒井俊蔵にしても、真情としては実の息子以上の想いを寄せていた『歌行燈』の恩地源三郎(大矢市次郎)にしても、その器量の発揮に難儀していたように思う。いずれにも、情に流されてはならぬとの自戒の建前の間隙を突いてくる「愛娘の恋情への思惑【酒井の欲】」や「恩地宗家の体面【源三郎の面目欲】」の窺えるところが流石だ。そして、七年前の観劇備忘録に江戸時代の敵討ちに材を得た物語を観ていて、今の日本人が感覚として失ってしまった最大のものは“見極め”に拠るのが判断であると自ずと思える感覚なのかもしれないと思った。と綴った前進座公演『あなまどいのことを思い出したりした。

 だが、少なくとも“求められる器量”に対する自覚と覚悟は備えていて、そのあたりが今の御時勢の権力志向の強い増長慢心の輩とは大きく異なるように思った。僕自身を含めて戦後育ちの若者が観ると、なにゆえ早瀬や喜多八が、酒井や源三郎の命令にそこまで従順なのかが理解し難かったりするのだが、“法より信用を旨とする人治”なれば、治める側の人物は絶対的な存在であることが道理そのものであり、理屈を超えた前提なのだ。ある意味、上位者にとって都合のいい時代でもあったわけだ。国家主義者が復古主義に魅せられる理由は、実は単純にこの一点に尽きているのではないかという気がしている。

 さればこそ、『歌行燈』の喜多八が何ゆえ源三郎から勘当絶縁の厳しい咎を受けたのかにおいて、まさしくその増長慢心が問われていたことが重要なのだと思う。宗山(村田正雄)を自死に追いやった結果も体面上はもちろん重大ではあるが、源三郎が心を鬼にした眼目は、若くして稀代の名人と謳われるに至った喜多八が、師の戒めにも関わらず田舎に住む盲目の謡が得手の按摩である宗山の鼻をへし折る得意に逸った“増長慢心”にあるわけだ。だから、宗山が嫌われ者だったことやその死が喜多八の本意ではなかったことを以って、辺見雪叟(伊志井寛)がとりなそうとしても耳を貸さない。「巨匠が描いた明治」の世界では、馬鹿よりも薄情、人を自死に追いやった責任よりも己が増長慢心のほうが、厳しく咎められるべきことなのである。復古主義に魅せられている国家主義者たちには、この点、お見逃しなきよう願いたいものだ。

 映画としての本作は『婦系図(総集編)』同様なかなか面白く、雪叟の鼓の音をうどん屋で耳にして気付いた喜多八が駆けつけるなかで門付け仲間の次郎蔵(柳永二郎)とも都合よく出くわし 、それこそ“役者の揃った”お袖(山田五十鈴)が源三郎たちの前で仕舞を披露する場面は、山場としての観応えが充分だった。また、泉鏡花原作の二作品を観たあとで『春琴物語』を観ることによって、佐助の春琴への献身についても、上位者に対する従順が人治として機能していた点が加味されていることへの触発を得た。そのことを弁えないままの恋情譚として観ると、過剰に倒錯性のほうに目が奪われることになるような気がする。

 「巨匠が描いた明治」としては、なかなか気の利いた絶妙のセレクションになっていたように思う。






参照テクスト:「高知県立美術館HP」より
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/contents/hall/hall_event/hall_events2017/kyosyo/kyosyo.html
by ヤマ

'17. 5.27.~28. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>