『幸福は日々の中に。』
監督 茂木綾子&ヴェルナー・ペンツェル

 若い時分に一年だけ指導員として勤めたことのある知的障碍児施設というのは、僕にとって、妻と出会った場所というだけではなく、それまで接したことのなかった知的障碍児と呼ばれる子供たちとの関わりや職員同士で交わした意見交換が、掛け替えのない刺激をもたらしてくれた特別な思いの湧く職場だ。

 だから、児と者の違いはあっても、本作に寄せる関心には強いものがあった。なかでも驚いたのは器楽演奏で、指揮に合わせてピタリと音が鳴り止んだり、リズムを合わせて音を出しているとは思えないのに何だか音楽らしく聞こえてくることに対して「あんなふうな合奏ができるとは!」と恐れ入った。

 そして、かつて退任に際して一文を求められた際に寄せた拙文に、編集担当の職員が「深まった人間理解」という見出しを付けていたことに何かしら微妙なものを覚えたことを思い出しつつ、映画のなかで、当時まさに僕があれこれ考えていたことに呼応するような事々を鹿児島しょうぶ学園の福森伸学園長が言葉にしていたところが、非常に興味深かった。僕もまた、彼らを観ながら自分に照射していたことを思い起こし、学園長が「ずるいんだよね」と自戒していたことに複雑な気持ちが甦った。

 当時、児の施設でありながらも、十代後半にいたる収容児が異性間で戯れる姿に、分校の定年退職もそう遠くないベテラン女性教諭が、二十三歳の僕に対して「この子たちの性の問題をどう考える?」と投げ掛けてきてくれて、大いに頭と心を悩ませたことがあった。

 者の施設なれば、その問題はもっと現実的な重要事であるはずなのだが、本作においては着衣のままの温泉での混浴姿を覗かせるなかでチラリと窺わせながらも、立ち入らないようにしていた。確かに、本作の焦点はそこにはなく、中途半端に踏み込むと作品的には収拾がつかなくなる気がする。だから映画作品としてはこれでいいのだろうが、三十五年前に僕が問い掛けられた問題に、福森学園長ならどのような言葉で応えるのか聴いてみたい思いが強く湧いた。そんな気にさせてくれる学園長だったように思う。

 教育者であった母親の開いた学園を継いだ福森学園長は、幼い時分から知的障碍者と交わりながら育ったそうで、老母の弁によれば、学校教育のなかでは問題児だったらしいのだが、それに似つかわしいオーナー施設長ならではの大胆かつ積極的で自由な学園運営を行っていることがよく伝わってきた。決して立派とは言えない設備のなかで人々が零す笑顔や苛立ちを観ながら、かつて僅かに携わったことのある福祉の現場の困難さと愉しさを懐かしむ気持ちになった。
 
by ヤマ

'17. 2.12. 喫茶メフィストフェレス2Fホール



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