『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』(Eye In The Sky)
監督 ギャビン・フッド

 なかなか危うい映画だ。国際重要指名手配の上位テロリスト2名が居合わせるなか今まさに自爆テロを実行しようとしている現場を前にして、軍事的には選択の余地なしとされるドローンによるピンポイント爆撃でパン売り少女の命を脅かすことの“已む無さ”を問い掛けてくる緊迫した時間を目撃しながら、非常に複雑な思いに駆られた。

 劇中で発せられた「状況は一変した」との言葉通り、今まさに自爆テロを敢行しようとしているという要素を欠けば、攻撃中止を支持する観客のほうが上回りそうだった状況からの変化であるところがミソだ。おまけに、政治的宣伝効果の大きさの代償に一人の少女の何倍もの被災を見過ごすのかと詰められる。

 さすがに僕もキャサリン・パウエル大佐(ヘレン・ミレン)の果敢さとフランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)の粘り強い英断を支持したくなる思いが湧いた。

 しかし、十五年前に観た『コラテラル・ダメージ』監督 アンドリュー・デイビス)において「副次的な被害」として「戦闘における民間人の犠牲」や「政治的にやむを得ない犠牲」を意味すると知った“コラテラル・ダメージ”という言葉に強い憤懣を覚えたことを想起すると、この、現実にはとてもここまでの真摯な誠実さを各人が発揮するとは思えない次元のものを見せられることで容認してしまうのは、どこか筋が違うような気がした。

 されば、大事なのは、本作で軍人も政治家も含めて末端から最上層部に至るまで漏れなく発揮していたように見受けられた“真摯なる誠実さ”なのかと言えば、そうではないはずだ。せめて“真摯なる誠実さ”を以て臨んでほしいとは思っても、“真摯なる誠実さ”で以て臨むなら「やむを得ない犠牲」として容認されるべきものになるという話ではない。世界一安全な戦場でモニター画面を観ながら爆撃の検討をしている人々が真摯で誠実であるかどうかはパン売りの少女にとっては全く関係のない話だ。

 物事には「天秤に掛けていいものと掛けてはいけないものがある」ということを前提にするか、あらゆるものに対して、それは比較衡量されても構わないものだと考えるかの根本が本来問われるべきものだろうと思う。天秤に掛けてはいけないものであっても、掛けてしまえば釣り合うことなく、どちらかに傾くのは道理なのだ。だが、傾くことは道理であっても、そのことが天秤に掛けることの道理を示しているものでは決してない。

 軍事的に自爆テロを目前で封殺することよりも大事なのは、政治的に自爆テロなどに誘われない状況を作り出すことのほうなのだという気がする。むかし岡林信康が唄っていたおまわりさんに捧げる唄 のことを思い出した。
 
by ヤマ

'17. 6.27. 美術館ホール



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