『暴露 スノーデンが私に託したファイル』を読んで
グレン・グリーンウォルド 著<新潮社単行本>


 オリヴァー・ストーン監督による映画スノーデンを観たのは、四年前。本書は更にその三年前に刊行されたものだが、エドワード・スノーデンの“暴露”によって、状況にどれだけ歯止めが掛かったのだろう。オバマ政権下のアメリカで起こった告発から時を経てバイデンによる民主党政権に戻って最初にすかさず報じられた記事に、本書に再々出てくる“ファイヴ・アイズ”への参画要請が日本に対してあったというものがあって、気になっていたところだっただけに、スノーデンによる著者への手紙にあった…合衆国政府は属国、なかでもともに“ファイヴ・アイズ”を構成するイギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドと結託し、世界じゅうに秘密の監視システムを張り巡らしています。これから逃れる術は何ひとつありません。…(P44)とのフレーズが目に留まった。

 だが、無論のことながら、これはアメリカ民主党政権に限って特徴的なことではなく、本書でもまさに記しているように9・11以降のアメリカの安全保障至上主義が権力の濫用につながる風潮を生み出した(P11)のであって、共和党政権下の9・11直後から、合衆国政府はそんな監視を実行するため、数々の法律を制定してきた。結果、NSA(アメリカ合衆国国家安全保障局)はアメリカ国民を監視する絶大な権力を手に入れ、外国人を無差別に大量監視できるほぼ無制限の権限を持つことになった(P117)わけで、民主党か共和党かという問題ではない。テロの恐怖(及び国の安全保障)は巧みに利用されており、国家が秘密の大量監視システムを運用することの危険性は―それが証明済みであるにもかかわらず―軽視されてきた(P310~P311)との弁は、大学卒業に際してのゼミ論でプライヴァシーの権利を主題にしていた僕もかねがね感じているところで、プライヴァシーの侵害や権力の濫用というものは基本的に抽象的な概念と見られかねず、人々が直感的に関心を抱く対象にはしがたい。さらに言えば、監視という問題はいつの時代においても複雑な話題にならざるをえず、広く大衆を引っぱり込むことがよけいにむずかしくなる(P37)との感じは、大学を卒業し社会人となって、より強く感じてきたところでもあったから、注目したいのは、プライヴァシーを保護したいという願望は人間が人間らしく生きるために―付随的ではなく―不可欠なものとして、われわれ全員が共有する願望だということだ。私たちはみな、本能的に理解しているはずだ。個人的な領域とは、他者の判断基準に左右されない場所だと。私たち自らが行動し、考え、話し、書き、試し、自分がどうあるべきかを決めることができる場所だと。つまり、プライヴァシー保護は、自由な人間として生きるために核となる条件なのだ(P256~P257)との記述に大いに共鳴し、「誰からも干渉されない権利は最も包括的であり、自由な人間が最も大切にする権利である」。プライヴァシーで保護される対象範囲は単なる市民的自由よりはるかに広い、プライヴァシーは人間の基本的な権利だ、と彼は論じたのである(P257)として言及されている、僕もゼミ論にて引用した覚えのあるアメリカ最高裁判所判事ルイス・ブランダイスの名を懐かしく目にした。

 高校を中退してはいたものの…テクノロジーに関して天与の才があり、その知性と才能のおかげで、まだ若く、正式な教育も受けていなかったにもかかわらず順調に昇進し、二〇〇五年には保安要員からCIA(アメリカ合衆国中央情報局)のテクニカル・エキスパートに格上げされ(P70)たとのスノーデンはCIAでもNSAでも上級サイバー工作員となるべく訓練を受けた。他国の軍隊や民間のシステムに侵入し、情報を盗んだり、攻撃準備を整えたりするための工作員だ。日本で集中的に訓練を受けた彼は、ほかの諜報機関から電子データを守るエキスパートになり、正式に上級サイバー工作員となる。そして国防情報局【DIA】の合同防諜訓練アカデミーの中国防諜コースで、サイバー防諜の講師を務めるまでになった(P74)とのことだが、この特異な経歴と若さが、彼の権力的体質に馴染めない感覚を染め変える暇を与えなかったのだろうという気がした。

 折しも韓国発のコミュニケーションアプリ「LINE」の保有する個人情報に中国技術者がアクセスしている問題が発覚して、日本の政府機関が地方も含めて使用停止措置を取ったりしているが、昨秋には、中国で新型コロナウイルス感染患者の濃厚接触者についての調査状況として、氏名住所どころか恋人の氏名やデートした場所や日時、銀行でローン手続きを行ったことやマスクの脱着状況、自宅の間取りや身長・体重・体格指数なども記録されていることが報じられていた。奇しくも本書には、過去何年にもわたり、合衆国政府は中国製のルーターやインターネット機器が“脅威”になると警告してきた。そうした機器には裏口監視装置が仕込まれており、使用者は例外なく中国政府の監視対象となりうるから、というのがその理由だった。しかしながら、委員会が避難したまさに同じことをアメリカも自ら行っていた。その事実がNSAの文書に記されている。(P221)とのこと。しかも…(下院情報)委員会は、これらの業者(華為【ファーウェイ】と中興通訊【ZTE】)が中国政府の監視網を広げているとの危惧を表明したのだ。が、中国製のルーターやその他の機器に監視装置が埋め込まれているという確証を得ていたわけではなかった。にもかかわらず、彼らはこれらの業者が協力を拒んだということで、彼らの製品を購入しないようアメリカ企業に呼びかけた。(P222)などという、まるでイラクの大量破壊兵器のような話が記されており、二〇一〇年六月に作成されたNSAの“アクセスおよびターゲット特定”部門責任者の報告書は、ショッキングというよりほかない。なんと、NSAは国外に輸出されるルーター、サーバー、その他のネットワーク機器を定期的に受領、押収しているというのだ。そして、それらの機器に裏口監視ツールを埋め込んだうえで再び梱包し、未開封であることを示すシールを貼って、何事もなかったかのように出荷する。NSAはこうして世界中の全ネットワークと全ユーザーに対するアクセス手段を得ていた(P223)とのことで、そのようなことを記録した内部文書がスノーデンによって“暴露”されたのなら、大騒ぎになって当然だと思うと同時に、なぜそこまでして米中でのシェア争いが繰り広げられるのかについての中国製品は信用できないという合衆国政府の非難の背景には、中国が監視をおこなっているという事実について世界に警告を発したいという思いがあったのだろう。しかし、中国製危機にアメリカ製機器のシェアを奪われてしまえば、NSAの監視網が狭まってしまうというのも大きな動機としてあったはずだ。言い換えれば、中国製のルーターやサーバーは経済的な競合相手というだけでなく、監視の手段としても競合していたということだ。ユーザーひとりがアメリカ製品ではなく中国製品を買うだけで、NSAは大量の通信に対するスパイ行為の決め手を失ってしまうことになる(P228)との推論に、成程と思わずにいられなかった。

 第一章「接触」(P18~P58)、第二章「香港での十日間」(P59~P140)、第三章「すべてを収集する」(P141~P253)、第四章「監視の害悪」(P254~P314)、第五章「第四権力の堕落」(P315~P371)からなる本書で最も重要なのは、やはり第四章だろう。社会の自由を計るほんとうの尺度は、その社会が反対派やマイノリティをどう扱っているのかということにあるのであって、“善良な”信奉者をどう扱っているのかということにあるのではない。世界最悪の専制政治のもとでさえ、忠実な支持者たちは国家権力の濫用を免れる。ムバラク政権下のエジプトで逮捕され、拷問され、射殺されたのは、街頭で打倒ムバラクを訴えた人たちであり、彼の支持者や家の中でおとなしくしていた人々ではなかった。…エドガー・フーヴァーの監視対象になったのは、全米有色人種地位向上協会の指導者や共産主義者、市民権や反戦を訴える活動家たちであって、社会の不正にだんまりを決め込む行儀のいい市民たちではなかった。…さらに、現時点では力のあるグループが、自分たちは監視されていないと考えるのはまったくの錯覚にすぎない。党派の力関係が監視に対する危機感の形成にどう影響しているかを考えてみれば、それが明らかになる。…ブッシュ政権下でNSAを擁護したのは共和党員だったが、オバマ大統領が監視システムを掌握すると、今度は民主党員が彼らに取って代わった(P295~P297)つまり、民主党の政治家も共和党の政治家も、権力を追求すること以外には確たる信念もなく、節操のない偽善をおこなう傾向にあるということだ。これはまぎれもない事実だが、もっと重要なのは、こうした議論から、人々が国家の監視をどうとらえるのかという本質が明らかになることだ。多くの不正と同様、人々が時の権力者を善人で信頼できると考えている場合、彼らは政府の行きすぎた行為に対する恐怖心を自ら進んで捨てようとする。彼らが監視を危険視したり、不安を抱いたりするのは、自らが監視に脅かされた場合にかぎられる。 だから、権力のラディカルな拡大はしばしば次のようなことから起こる。権力の拡大によって影響を受けるのは特定の個別グループだけだと政府が国民を説得するのである。実際、いくつもの政府が昔からこの手を使って、自分たちの抑圧的な行為には目をつぶるよう国民を言いくるめてきた。正しかろうとまちがっていようと、社会の片隅にいる取るに足りない人々だけが抑圧のターゲットになるのであり、それ以外の人間全員にはそうした抑圧が自分たちに及ぶ心配など無用であり、そうした権力の行使を黙認し、支持さえできるよう信じ込ませてきた。…国家権力が濫用されても自分たちは安心だと考える無関心な人々や支持者らによって、権力が本来の適用範囲をはるかに超えて広がる土壌が生まれ、しまいにはその濫用をコントロールすることができなくなるからだ。それはもう必然的なものだ。実例を挙げればきりがないが、おそらく直近で最も影響力が大きかったのが愛国者法の濫用だろう。…明言されている目的を大幅に逸脱して適用されるようになった。実際、制定以来、この法律はテロにも国家安全保障にもまったく関係のないケースに適用されることのほうが圧倒的に多くなっている。…国民が自分たちには影響がないと考え、新しい権力を黙認するようになると、それは制度化され、合法化され、異議を唱えることは不可能になる」(P299~P301)というわけだ。

 第一章において、愛国者法ができたときには、この法律が合衆国政府に、ありとあらゆる人間の記録をこれほど大量に、無差別に収集する力を与えることになろうとは、誰ひとり考えていなかっただろう。おそらくは二〇〇一年にこの法律を起草したタカ派の共和党下院議員たちでさえ。あるいは、この法律を市民の権利を脅かすものと見ていた人権擁護の唱導者たちも。(P51)と言及していたことに対する懸念と危機感のほどが窺えるわけだが、オレゴン州選出の民主党上院議員ロン・ワイデンとコロラド州選出の民主党上院議員マーク・ウダルは二年間、全国をまわってアメリカ国民に警告を発してきた。オバマ政権が強力で底知れないスパイ能力を自らに付与するために使った「法律の秘密解釈」のことを知れば、国民は必ず「ショックを受けるだろう」。そのことを憂慮した上での行動だった。ところが、こうしたスパイ活動や「秘密の解釈」といったもの自体が機密に分類されていたため、上院情報特別委員会のメンバーでもあるこのふたりの民主党議員は、彼らが脅威を感じたことについて公表するのをぱたりとやめてしまう。連邦議会議員は憲法により、望みさえすればこうした開示が認められるという合法的な免責の盾を獲得していたにもかかわらず。(P52)といった記述を読むと、既に特定秘密保護法を制定している我が国も他人事ではないと思わずにいられない。

 そうしたなか、第五章に述べられていることは、アメリカ以上に我が国において顕著だと常日頃から感じていることだけに気が滅入ってきた。報道機関の使命とは権力者が保身のために必ずばらまく嘘を見抜くことだ。そうしたジャーナリズムがなくなると、権力の濫用は避けられなくなってしまう。ジャーナリストが政治指導者と手に手を取って彼らを支援し、美化するなら、合衆国憲法で保障される報道の自由など誰にとっても無用の長物となる。報道の自由とは、それとは正反対のこともできることをジャーナリストに保障するためにこそ必要なものだ。…報道につきまとうこのダブルスタンダードは、“ジャーナリストは客観的であるべし”という暗黙のルールを考えるとき、より顕著なものになる。…これは見え透いた方便であり、この業界の身勝手な見解でもある。人間の知覚や意見というのはそもそも主観的なものだ。ニュース記事はどんなものも大いに主観的なものだ。文化的にも国家的にも政治的にも。そのため、ジャーナリズムはどのような形であれ、どうしてもなんらかの勢力に与することになる。 これは自分の意見を持つジャーナリストと持たないジャーナリストがいるという話ではない。意見を持たないジャーナリストなど存在しない。自分の意見を率直に表明するジャーナリストと、自分の本心を隠し、まるで意見を持たないかのように振る舞うジャーナリストがいるだけのことだ。 報道者は意見を持つべきではないとする考え方は、…ジャーナリズムを…去勢するために比較的最近つくられた戯言にすぎない。(P346~P347)

 “客観的報道”などというルールは本質的にまちがっている。…このルールを信じると主張する人々が一貫してこのルールに準じた例はほとんどない。体制派ジャーナリストは、物議をかもしているもろもろの問題に関して、常に自分の“意見”を表明している。…客観性のルールというものも実のところルールでもなんでもなく、支配的な政治階級の利益に貢献するための方便でしかない。…“客観性”というのは偏見を反映した見方にすぎず、ワシントンの頭のお固い面々の利益に貢献しているにすぎない。ジャーナリストの意見が問題になるのは、それがワシントンの常識を逸脱した場合に限られる。(P347~P348)といった記述を読むにつけ、三十年近く前に山形国際ドキュメンタリー映画祭で観たマニファクチャリング・コンセント-ノーム・チョムスキーとメディア-(監督 マーク・アクバー & ピーター・ウィントニック)に材を得て映画新聞に寄稿した拙稿のことを思い出した。

 そして往年の伝説の記者はみな例外なくアウトサイダーだった。ジャーナリズムの世界に足を踏み入れる者の多くは、イデオロギーだけでなく、その性格や気質によって、権力の手先となるより権力に楯突く道を選ぶ傾向にあった。ジャーナリストとしてのキャリアを歩むことは、アウトサイダーとなることに等しかった。そんな記者は稼ぎも少なく、組織内での地位も低く、目立たないことがほとんどだった。 それが今はすっかり様変わりしてしまった。メディア企業はどこも世界最大級の企業に買収されている。そんなメディアのスターの多くは高給をもらい、複合企業体の雇われの身となっている。ごく普通の会社員となんら変わらないということだ。 彼らのキャリアは当然、かかる環境で成功を収めるのに必要とされる基準によって決められる。つまり、どれだけ上司に気に入られ、どれだけ会社の利益に貢献したかという基準によって。 そうした大企業の構造の中で生きる者は、組織の秩序を乱そうとせず、組織におもねるようになる。畢竟、コーポレート・ジャーナリズムの世界で成功した者は権力を受け容れる性質に育ってしまう。こうして彼らは組織の力と自らを同一視し、それと戦うのではなく、服従する術を身につけるようになってしまうのだ。(P349~P350)との記述に、首肯せずにいられなかった。

 だから第一章の早々に述べている国家(を御題目にした自己)の安全保障に関わる人間は光を好まないということだ。彼らは自らの安全が確保されている暗闇の中でしか、その悪逆非道ぶりを発揮できない。秘匿性こそ権力乱用の礎であり、濫用を可能にする力なのだ。その毒を消すことができるのはただひとつ、透明性しかない。(P25)にもかかわらず、その毒が蔓延してきているのだろう。
by ヤマ

'21. 3.28. 新潮社



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