『秒速5センチメートル』(A Chain Of Short Stories About There Distance.)
監督 新海誠


 第一話『桜花抄』で刻み込まれたものがベースとなって、第二話『コスモナウト』が、第三話『秒速5センチメートル』を観た後で効いてくるという、なかなかに奥も深い作品で、単に初恋の煌きを美しくノスタルジックに描いた作品ではなかった。

 実写と変わらないくらい精緻に描き込まれた画面ながら、実写だと映像処理をいかに加えても、このような透明感は出せないと思われる美しさとアニメーションならではの畳み掛け流れゆく画面展開のなかで、五十歳を目前にした僕が図らずも落涙を誘われた場面は、第一話『桜花抄』のなかで、東京の豪徳寺に住む中学一年生の遠野貴樹が、小学校時分に同じ中学への進学を目指して仲良く合格したにもかかわらず、転校で離れ離れになった篠原明里の暮らす栃木の岩舟に会いに行く約束をして向かう汽車のなか大雪の悪天候に見舞われ、列車は遅れるは渡そうと持参した手紙は飛ばされるはで、自分の力ではどうしようもない運命に左右される形で見舞われた不安と孤独、明里への気遣いに耐えきれなくなって、車席で両膝に手を当て突っ張るようにして上体を支えながら、フードキャップに包んだ頭を垂れて涙する場面だった。

 午後四時前の普通列車に乗って午後七時にローカル駅の待合室で会う約束のできる距離というのは、大人にとっては、そうたいしたDistanceではないけれども、そして、間もなく今度は自分の転校で九州の種子島まで行くことになっている貴樹にとっても、それに比べれば小さなものだからこそ、この機会を逃したらいつになるか分からないとの思いで向かわせたものだったのだろうが、十三歳の少年にとっては、いくつもの乗り換えを経て向かう行程は、“初めての一人旅”と言うに足る昂揚と期待と不安の交錯するものだったはずだ。作り手のデリカシー溢れる描き方によって、そのことが手に取るように伝わってきていたからこそ、思い掛けない天候不良で汽車のダイヤが乱れ、少々の遅れは覚悟せざるを得ない状況から、会って手紙を渡したらろくに話す間もなく帰途に就かなくてはならなくなるかもしれない覚悟を迫られる状況、それ以前に明里が待っていてくれるかどうかとの思いがよぎったりしているうちは、まだまだ余裕だったと思えるような状況を経て、一体いつになったら着くのか分からず、約束などなければ疾うに引き返したいけれども連絡の取りようもなく「明里、もう帰っていてくれ…」と呟かずにいられないなかで向かうしかない状況に至る貴樹の胸中が、明里とのこれまでの交際の回想とともに観ている者の胸に沁みてくる。人生に不可抗力は付き物だけれども、情けなさとくやしさ、すまなさで後悔の念に最も苛まれがちな出来事は、大概その不可抗力に左右されているように思う。その人生の真理を貴樹はこうして学んでいっているわけだが、四時間以上遅れ、午後十一時を過ぎて到着した雪の岩舟駅には、貴樹と同じく帰るに帰れないまま、待合室の硬い椅子に項垂れて腰掛けている明里の姿があった。そして、行き場も汽車もなく、表に出て銀世界のなかを歩き、巨木の桜の木の下でファーストキスを交わしただけの一夜を、ともに畑の脇の納屋で朝まで過ごすわけだが、かようにピュアで美しく素敵な初恋の時間を過ごしたことのない僕には眩しくて仕方がなかった。

 しかし、若く幼い時分にかような果報を得てしまうことは、必ずしも幸いではないようだ。第二話『コスモナウト』に描かれていた澄田花苗のような健気でしっかりした可愛い高校三年生の同級生から想いを寄せられても、心を動かせなくなっている。第二話では、偶然を装っていつも貴樹の下校時を待ち伏せ、乗れなくなった波に「もう一度乗れるようになったら遠野君にきちんと告白するんだ」と、秋に入っても登校前の朝にサーフボードを携えて海に出ていた花苗の切なさが胸に沁みてくるとともに、貴樹が少々癪に障ったが、ああいう鈍さというものを優しさにくるんで演出する時期が男にあるのも確かなことで、二人の思いのすれ違いを僕はそんなふうに観ていた。そういう意味では、第二話が貴樹ではなく、花苗を主軸に描いているのが巧みな語り口だったように思う。おかげで僕は、想いの叶った『桜花抄』と想いの届かなかった『コスモナウト』という二つの若い恋の瑞々しくも美しい情感を綴った作品なのだろうと思って観ていたわけだ。けれども、第三話『秒速5センチメートル』を観終えたら、第二話は、この作品の主題歌の歌詞に♪ One more chance 記憶に足を取られて One more chance 次の場所を選べない♪とある貴樹の姿を描いたものだったことに気づいた。

 おそらくは東京の大学に進学した彼は、卒業後も都会で就職しつつも、日々をすり減らし、女性と付き合っても「1000回のメールを交わしても1センチしか近づけなかった」との言葉を携帯メールに残して去られてしまう。手紙に「あなたはきっと大丈夫」と書かれた彼ではあったけれども、人生のなかでの欠落感は、高校時分よりもっと強く、実際に女性とも付き合ったことで高校時分とは違って、欠落感の正体を見極めるに至ったのだろう。だから、♪いつでも捜しているよ どっかに君の姿を♪という主題歌の歌詞となるわけだが、明里のほうは、目前に迫った結婚前の実家で身辺整理をしていて、13歳の遠い日に貴樹のように失くしたわけではなかったが、思わぬ展開のなかで渡せないまま処分することもできずに缶のなかに仕舞っておいた手紙を見つけて、懐かしく彼のことを思い出すものの、彼女の心のなかに蘇るものは、やはり遠い日々への感傷に終わってしまうという予感を残しているエンディングだったように感じた。

 いわゆるマリッジブルーのようなものが、その物思いに少々深みを与えている様子は窺えたのだが、女性は“記憶に足を取られて次の場所を選べない”状態になるほどには虚弱ではないような気がする。マンションのベランダに出て、秒速5センチメートルで落下するという桜の花びらを掌に掬っていた女性の姿に、婚約を解消して独り暮しを始めた様子を僕は受け止めることができなかった。作り手が敢えてラストシーンに♪急行待ちの踏切あたり♪での貴樹の振り返りの場面を配したうえで、小学生のときの再現をしなかったのは、そういうことだったのではないかという気がしている。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2007hicinemaindex.html#anchor001570
by ヤマ

'07.11.14. 美術館ホール



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