『野のなななのか』
監督 大林宣彦

 最近の邦画ではさっぱり見かけなくなったが、オープニング・クレジットで主要キャスト・スタッフを示した幕を引くようにして映画が始まる昔の邦画のスタイルが僕は嫌いではなくて、映画を観るうえでの心構えを調えるのだが、そのオープニング・クレジットに三年前に観た前作『この空の花 長岡花火物語』と同じ長谷川・大林コンビを見つけて嫌な予感がした。

 映画日誌は綴っていないが、もとより主題やメッセージに文句をつけるわけではないが、この過剰なまでの外連味と饒舌さによる暑苦しさはどうだろう? 観賞した受け手のなかで膨らむ余地がほとんどないくらい、語りつくしてしまっている余白のなさは、作中で言及している“感情体験”をむしろ奪ってしまい、なんだか講義を承っているような感じを覚えた。 そこんとこに倦ませまいとするかのような外連味の過剰さには、本来宿るべきはずの遊び心があまり感じられなくて、妙に窮屈だった。 教員をしながら弘前劇場を展開していた長谷川孝治と饒舌に過ぎる大林宣彦の悪しき相乗効果が働いているように感じられる脚本だと思った。とのメモを残している前作から湧いた予感のとおり、ナレーションに加えて字幕を重ねる説明過剰に加え、仰々しく始まったオープニングから、まるで橋田寿賀子のTVドラマのような長口舌の説明過剰のうえに能書き満載の台詞に何とも芝居がかった演技、演出を見せられ、片時も途切れることなく流れ続ける音楽に呆れつつ、これが三時間続くのかと怖気づいた割には、うんざりすることなく観ることができた。

 主題や企画はとてもいいと思うのに、これだけ五月蠅いと感じる映画というのも珍しい。そのように感じる作品を僕が普通に観ることが出来た一番の功績は、やはり最も謎な人物である清水信子を演じた常盤貴子と、彼女に十四年間育てられたという鈴木カンナを演じた寺島咲、そして撮影の三本木久城にあったような気がする。

 今は亡きアンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』を意識しているかのように、各章の幾つかの括りを繋ぐときに現れる楽団の一行にしても、清水信子を十八歳で悲劇的な死に至った山中綾野(安達祐実)の生まれ変わりとしつつも、鈴木光男(品川徹)の長男 冬樹(村田雄浩)の同級生 百合子(斉藤とも子)に、女学生時分に亡くなったと言わせているようなあざとさにしても、光男と信子の関係にしても、妙に嫌味が残って仕方がなかった。

 要は、七年前に観た『樺太1945年夏 氷雪の門』('74)にも描かれていたソ連侵攻とフクシマ、中原中也と葛西善蔵をモチーフに、死と輪廻転生を反戦の御旗の元に描こうとしていたのだろう。

 戦後七十年が、綾野の死からいくつめの七日になるかは示されなかったが、光男の七つめの七日に、草原で光男と大野國朗(伊藤孝雄)が交わしていた対話の場面は、なかなか良かったように思う。
by ヤマ

'16. 8. 7. 民権ホール



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