『ドクトル・ジバゴ』(Doctor Zhivago)['65]
監督 デヴィッド・リーン

 デヴィッド・リーン監督が大好きな映友に僕が未見だというと送られてきた未開封ディスクにて観賞。彼によれば「なんか腑に落ちてこない唯一の映画」なのだそうだが、大いに気に入った。これだけゆったりと大きくて贅沢な映画は、もう今では観ることが出来ないとしみじみ思った。ちょうど奇しくも『KANO ~1931 海の向こうの甲子園~['14]、野のなななのか['14]と立て続けに三時間を超す映画を観ていたので、本作の破格ぶりが余計に印象深かった。

 ロシアの大地には一面に咲く黄色い花が似合うなぁ、と「私のもとへ帰って」「愛に応えて」との花言葉を持つ黄色い水仙の咲き広がる光景を観ながら、本作とデ・シーカ監督の『ひまわり』とどちらが先だったのだろうかと思ったりした。また、もう一つの風と共に去りぬ['39]という趣もあったように思う。

 作中で“個人の生活に固執する詩人”と咎められていた医師ユーリー・ジバゴ(オマー・シャリフ)が、帝政ロシアからソビエト連邦へと至る激動の時代に翻弄されながらも、イデオロギーや世間知に対する“良心の自由”を手放せない魂の人として、自分に正直な生き方のまま放浪し、倫ならぬ恋情にも遂には溺れ、路上に倒れ死ぬ生涯を描いていたにすぎないのに、是非もなき人生の悲喜こもごもが沁みてくるとともに、人の生がいかに環境や時代とりわけ政治状況の大波に揺らされるものであるのかということに改めて思いを馳せさせられるようなところがあった気がする。

 対独戦であろうと、内戦であろうと、赤衛軍であろうと、白衛軍であろうと、パルチザンであろうと、大義などというものを振りかざして武器を手に取り暴力行使を始めると、必ず人間性が損なわれることを怠りなく描いているところに、好もしさをとても強く感じた。だから、銃器を手にした戦いや強奪とは対照的な、ユーリーの書いた、自分に向けられた詩の言葉をラーラ(ジュリー・クリスティ)が読み入る場面に心打たれたのだろう。ジュリー・クリスティの微妙な所作や表情の深みがとても美しかった。

 十代の時分からヴィクトル(ロッド・スタイガー)とパーシャ(トム・コートネイ)の間を揺れ動き、その時分から生涯に渡ってユーリーを魅了し続け、ユーリーの死後は彼の異母兄(アレック・ギネス)からも想いを寄せられるようになるラーラの女性像がなかなか興味深かったのだが、今時だと、こういう女性像でヒロインに置くことは、もはや許されなくなっているような気もして、世の中がひどく味気なく窮屈になってきていることを改めて感じた。だが、何を考えているのかよく分らない、よく言えば“融通無碍”、悪く言えば“成行まかせの男次第”で、ほとんどシングルマザー同然でありながらも、生き延びる術には長けているようにも見え、それでいて、いかなる経験を経てもイノセンスを失わない類い稀なる資質をもって、洞察力に富んだヴィクトルは、十代の彼女を「不純」と見抜いたのだろう。若き日のパーシャが持っていた浅薄な純真や高潔とは本質的に異なる、女性ならではの核心部分の一つのように思えるのは、やはり僕がヴィクトルと同じ男の側にあるからなのかもしれない。

 そんなヴィクトル・コマロフスキーの選んだ生き方である“リアリスト”とも、パーシャが選んで堕ちていった“アイデアリスト”とも異なる、リアリストのもう一つの対義語である“ロマンチスト”だったのがユーリーだと思う。彼を演じたオマー・シャリフによく似合っていて、少々意外だった。誰もがそうであるように、僕も当然ながら彼ら三人の要素いずれをも備えているわけだが、年代によってどの要素が強かったかにはそれなりの変遷があるけれども、どうやら中年期以降は、最もユーリー的になってきているような気がする。それゆえに本作が殊更に響いてきたのかもしれない。

 それにしても、大長編の映画なのに、まるで短編作品の映画に観られるような象徴的で多義的なショットを頻出させつつ、シネスコよりもワイドなパナビジョンならではの壮大なスコープで圧倒してくる絢爛たる作品だった。その画面の象徴性や多義性と重なるように、物語の展開も歴史的な出来事の数々を踏まえながらも、半端なリアリズムなどものともしない象徴性に富んだ運びを見せる。いや全く凄い映画だった。スクリーンで観る機会が得られたら、必ず再見することにしようと思った。



【追記】'16. 8.10.
 上述の友人が腑に落ちなかったのは「ラーラ(クリスティ)とヴィクトル(スタイガー)の関係」だったそうだ。また、拙日誌を読むことで、ユーリー・ジバゴ(シャリフ)は「ノンポリでボンボンだから情勢に振り回されている役回りなのか! それでいいのか? リーン監督の他のヒーローと違いすぎて、戸惑ったのか!」とも思い当たったようだった。

 確かに、デヴィッド・リーン監督作品のヒーロー像としては、ユーリーは異質のような気がする。そういう意味では、むしろヴィクトルを主役にすると据わりがいいのかもしれない。だが、作り手としては、ヴィクトルとパーシャを並置したかったのだろう、良くも悪くも世の中を動かしていく両輪として。

 その点、ユーリーは、世の中に振り回される側であって、動かしていく側ではない。しかし、「世の中を動かしていく」ということに如何ほどの意味があるのか?という問い掛けこそが、作り手のスタンスのような気がした。世の中を動かしてみたところで、不易流行とは言い難い有為転変に見舞われるばかりで、ともすれば戦禍による荒廃しか招かなかったりするわけだ。そんな天下国家よりも、生命を紡ぎ継いでいく営みにこそ、人の生の意味があるというようなことを描いていた気がする。

 ヴィクトルとラーラの関係については、かなり象徴的だが、僕には、年若い娘において、ある種、普遍的なものを描いていたように思えた。現実的な力を持ち、大人の貫禄と自信を滲ませた年長者【ヴィクトル】に惹かれる部分と、あるべき世界の理想を追い求め、現実の超克を果たそうとする若々しい野心を燃やす若者【パーシャ】の相反する双方に惹かれる部分の間で揺れていたのだと思う。

 そして、女性にとっての男性の魅力というものの二つの側面とオーバーラップさせて、その二つの相克が社会変革を生み出しているというような社会観をも象徴的に込めていたような気がする。僕にとって、そういった捉え方のキーワードになったのは、ユーリーに冠せられていた“個人の生活に固執する詩人”という言葉だった。これにより、併置されたヴィクトルとパーシャの二人に対置されていたユーリーという構図が浮かびあがり、その中心に置かれていたのがラーラであることに気づいたように思う。

 さすれば、ラーラとは何者だったのだろう。拙日誌に奇しくも何を考えているのかよく分らない、よく言えば“融通無碍”、悪く言えば“成行まかせの男次第”で、ほとんどシングルマザー同然でありながらも、生き延びる術には長けているようにも見え、それでいて、いかなる経験を経てもイノセンスを失わない(換言すれば、経験に学ぶものがない)と書いた存在だ。あの掴みどころのない茫漠とした存在こそは、“人民”なるものの象徴だったのかもしれない。


 
by ヤマ

'16. 8. 8. ブルーレイディスク



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>