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『人魚伝説』['84] | |||||
監督 池田敏春
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カルトムービーとして名高い本作は、かねてより気になっていた作品で、ようやく観る機会を得たら、思いのほかカラーの褪色がなくて満足した。なかなかパワフルな映画で、いかにもATG提携作品らしく、イメージ優先の画面運びのなかで佐伯みぎわ(白都真理)の裸身、濡れ場が惜しげもなく頻出する。実に昭和五十年代最後の年の映画にふさわしい“昭和の香り”が濃厚に漂っていたように思う。 そのような本作にインパクトが宿ったのは一にも二にも、濡れ場にもアクションにもまさに体当たりで挑んでいた白都真理の気迫の賜物だ。彼女の大真面目な熱演を欠けば、思わず失笑してしまいかねない無理な場面や展開が随所に観られたように思うのだが、それらが却って圧巻のパワーに転換していたのは、演出の果たした技だったのか、瓢箪から出た駒だったのか、微妙な感じがした。 それはともかく、利権社会としての日本の暗部について原発立地を素材にし、志摩を波摩に置き換えた街での“夫を殺害された海女の復讐譚”を観ながら、その余りにB級娯楽テイストに徹した画面作りをしたカルトムービーの上映会を、こともあろうに福島原発立地である富岡町からの避難者であり、被爆労働者の母として反原発運動に加わり三年前の参院選に立候補していた木田節子さんの講演会「今、福島で起こっている事は?」+彼女と牧田寛(高知工科大学工学博士)さんとの対談「果して、原発は必要なのか?」と抱き合わせている主催者の奔放な剛腕ぶりが、まさに映画作品さながらで何だか妙に可笑しかった。いかにも相応なドキュメンタリー映画などではないところが、小夏の映画会の主宰者 田辺浩三さんの真骨頂だと思った。 映画作品もかなり強烈だったが、それ以上に印象深かったのが木田節子さんだ。反原発活動に携わるなかでの自身の家庭的な面での苦衷についても実に率直に語り、被災地や被災者における飾りなき実情を“身から出た言葉”で冗談口を交えて重ねるなかに、並々ならぬ肚の据わりようを感じた。「市民運動に“非暴力”は絶対に欠かせないんですが、この映画の海女さんのような真似はできなくても、向こうがとんでもない暴力を使ってきていることに対して、ほんとに“非暴力”を守らなきゃいけないのか、と思ったりすることもあります。だから、この映画のクライマックスで大暴れするのがよくわかります。」というようなことを言っていたのは、主催者への配慮のような気もして、大いに感心した。 打ち捨てられ首まで埋もれた地蔵の頭を撫で嵐の襲来を祈願したうえで、二本の三叉銛を自分で加工した一本槍二本を背負い、風神雷神の憑依を得たように黒幕たちに突撃していく白都真理の白装束姿には、確かに圧倒された。地元選出の国会議員(神田隆)あたりを黒幕に据えている段階で既に相当に安っぽいのだが、誰も彼をも鬼神のごとく殺戮していく海女の憤怒には、猫を噛む窮鼠に見合うだけのものが宿っていて、単に夫(江藤潤)を殺されたことへの怒りに留まってはいなかったように思う。 そのようななか、木田さんの話を聴いていて最も強く残ったのは、原発事故から五年経って、脱原発どころか普通に再稼働が進められだしていることに関するものだった。ひどい目にあった被害者側がいろいろな遠慮や怖気から、真実を語らないことに対して高を括って向こうが甘く見てきたからだというような話だった。その意味で、検察審査会で東電社長たちに対する不起訴処分が不当とされたことを受け、まもなく始まる審議に注目しているのだとも語っていた。 この五年間で経験したであろう特異な体験を通じて、深い失望や不信、挫折感、諦念に囚われた様子も隠さず覗かせながら、それらを追いやり、屈せずに取り組んでいく行掛りを引き受けた彼女の覚悟のようなものに触れ、少なからぬ感銘を受けた。安っぽく熱くない分、静かな迫力に満ちていたが、ご自身のなかでは、寄せてくる挫折感や諦念と苦闘しつつ追いやっているような気がした。全くもって、原発事故なかりせば、だと思う。 参照テクスト:地元紙の告知記事 http://www.kochinews.co.jp/article/25787/ 推薦テクスト:「チネチッタ高知」より http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/16073002/ | |||||
by ヤマ '16. 6.26. 龍馬の生まれたまち記念館 | |||||
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