『FOUJITA』
監督 小栗康平

 実にスタッフワークの見事な作品だと思った。オープニングカットからして屋根を歩いている猫の姿があるものの、まるで絵画そのもののような美しさで、その後もたびたび静止画のなかに人や車の動きが映し出される形での“絵画的な美しさの顕著なカット”が頻出していたように思う。照明の具合なのか、実景にCG加工を施したのか、いずれにしても圧倒的な画面だった。それはまさに、その卓抜した画力によって、20年代には“エコール・ド・パリの寵児”となり、40年代には“戦争記録画の巨匠”となった藤田嗣治が、絵画によって何が為せるかに挑んでいたことをなぞるように、小栗康平が映画の絵で何を為せるかに真っ向から挑んだ作品であることを示していた気がする。

 物語的にはほとんど何の説明も脈絡もつけない運びを選択することで、観る側をひたすら画面に向かわせようとしている感じがあったが、その画面に込められていた情報量が非常に濃密だったように思う。それとなく見覚えのある作品が室内に置かれていたりするほか、ちょっとした小道具の類に非常に丹念な考証と思惑が込められているような気がした。おそらく優れた絵画を観て絵のなかにドラマを感じるような形でこの映画を観てもらいたいとの作り手の思いがあるのだろう。

 最も印象深かったのは、藤田(オダギリ・ジョー)が自身の内腿に入れていたユキ(アナ・ジラルド)と思しき女性の姿を写した刺青だった。彼は本当に刺青をしていたのだろうか。終映後、映画館で居合わせた顔馴染みの映画愛好家との間で話題になった“バンザイクリフ”と思しき投身の記録映像を見つめる藤田の場面についても「あのカラー映像は米軍側のものですよね?」という彼の指摘が御尤もなように、パリのカフェの場面にしても、パーティの乱痴気にしても、本作は藤田にまつわるドキュメンタルな再現を映画において試みていたわけでは決してないように思う。そういった点でも優れた写生画が実景をそのまま写し取ろうとはしていないことと呼応している気がする。

 多分に象徴的でひたすら作り手の思いの込められた映像を展開していた作品なのだが、その映像を創造するうえでは、入念な考証と調査が加えられ、それらがふんだんに画面に盛り込まれていた気がする。そして、僕自身の知識教養の程度ではそれらを堪能するレベルからは凡そ程遠いことを痛感させられるだけの丹精だったように思う。そのようななか、顕著なトーンとして施されていた藤田嗣治のパリ時代の饒舌と帰朝時代の寡黙の対照が、非常に象徴的に感じられた。

 僕が『アッツ島玉砕』の実物を観賞したのは、ちょうど十年前の4月で、東京国立近代美術館で開催された生誕120年 藤田嗣治展でのことだ。藤田の乳白色の実物を観たくて赴いたのだが、戦争記録画のほうに圧倒された覚えがある。こんなに大きな絵だったのかと感嘆した当時の記憶からすると、本作のなかに登場した『アッツ島玉砕』は、軍服を着てその前に立つ藤田のサイズと比較して、僕の記憶のなかにある作品よりも少々小ぶりだったのだが、映画制作にあたって、そのあたりに遺漏はないだろうから、十年の歳月とともに僕の心象のなかで大きな絵の記憶が増幅されているのだろう。絵の印象の与えるものとして興味深いものを覚えた。そして、本作の作り手の創造した画面の印象の与えるものとして僕が受取ったのは、“思惟の人”としての藤田嗣治のイメージだった。


by ヤマ

'16. 5.23. あたご劇場



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