『ターナー、光に愛を求めて』(Mr.Turner)
監督 マイク・リー


 一年ほど前に東京で予告編を観たときから気になっていた作品をようやく地元で見られる機会が得られて出向いたら、近来にはない賑わいで些か驚いた。上映会場が美術館であることや二年前の大回顧展の開催で煽られた人気が地方都市にも及んでいるということなのだろうか。

 それはともかく、オープニングからもろにターナーの絵画そのものを意識したような風景画像が現れてニンマリすると同時に、なんだか明度が足りない違和感が拭えなかった。東京の劇場で映し出されたものもこれと同じだったのだろうかと帰宅後、公式サイトの予告編を再生したら、やはりもう少し明るかった。もっとも、これは自分の端末ディスプレイの設定レベルにも支配されるから、これだけでもって断じるわけにもいかないのだが、物語性以上に映像が命のような作品において映写に疑念が残るのはいただけないと思わないではいられなかった。

 オープニングの風景のなかを歩く農婦らしき二人連れの噂する、ターナーではなさそうな知人についての「友達の一人もいそうにない」とのコメントが暗示していたターナー(ティモシー・スポール)という人物に、 ブース夫人(マリオン・ベイリー)との関係のようなものがあったとは意外だった。

 だが、関係性ということで最も興味深いというか気になったのは、家政婦のハンナ・ダンビー(ドロシー・アトキンソン)との間柄だったが、物語よりも画像を観てくれと言わんばかりの作品ぶりに、想像が刺激されるのみだった。物語的に明示するのは、くっきり描出することを避けたターナーの画風に見合わないということなのかもしれない。断片的に示される場面からぼんやりと想像できる関係性の不確かで一筋縄では解せなさそうな奥行きが、実にターナー的だったような気がする。それにしても、自分の知らない住所でのターナー宛ての手紙を見つけて訪ねて行きながら、戸口の前で引き返してきたハンナの想いは、いかなるものだったのだろう。一人で訪ねて行っていたわけではないところが意味深長だった。

 エピソードの描出で最も気に入ったのは、展覧会場でヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号に赤いブイを描き加える場面で、最も気になったのは、ターナーが娼館を訪ねてポーズを取らせ描こうとしていた絵のことだった。ターナーに人物画のイメージを僕が持っていなかったうえに、肖像ではない人物画に彼が取り組んでいたことが示されていて、なかなか鮮烈だった。ターナーがそこに模索しようとしていたものは、何だったのだろうか。

 だが、ターナーの画業にも、ターナーの人物や人間関係にも、そう深く立ち入らずに150分もかけて19世紀半ばのイギリスの風俗風景の再現に腐心していたように思う。ひたすら映像を注視してほしいと作り手が求めてきている作品のように感じた。




推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3700229&id=1943602490

by ヤマ

'16. 1.27. 美術館ホール



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