『ブリッジ・オブ・スパイ』(Bridge Of Spies)
監督 スティーヴン・スピルバーグ


 いい映画だった。昨今では“弁護士”ときくと、強弁を弄した我田引水に執心する人たちだといった印象が、政治家になった弁護士たちのせいですっかり強くなっているけれども、わが国の与党副総裁や政調会長、引退したとはとても思えない元市長などと違って、トム・ハンクスの演じたジェームズ・ドノヴァンのように、早朝のグリーニッケ橋での苛烈な“サーモン釣り”から帰宅するなりベッドに倒れ込んで眠りこけた姿を、妻(エイミー・ライアン)が誇らしげに見守るような人物であってほしいものだと思った。

 キーワードは、タフ&フェアネスだったような気がする。人からどう見られるかではなく、自身の確かさを保つことが大事だと言っていたドノヴァンの言葉に頷いた。だが、始末の悪いことに、前記の政治家弁護士たちも風見鶏をしつつ、真顔で同じ言葉を吐きそうな気がする。だけれども、逮捕されたソ連スパイのルドルフ・アベル(マーク・ライランス)の弁護という、日本で言えば、まるでオウムの麻原たちの弁護を求められたのと同じような国民の反感を買う役回りを弁護士協会の要請により受けたようなことを彼らは決してしないだろうし、アベルと接見した後に接近してきたCIAエージェントのホフマン(スコット・シェパード)から情報提供を求められ、職業的矜持として断固として拒否する際に言われたルールなんか、どうだっていいんだという言葉に対して返したような言葉は、彼らがアメリカ人だったとしても発することなどできないように思った。

 曰くきみはドイツ系、私はアイルランド系。でも(人種も民族も違う者が)同じアメリカ人でいられるのは、憲法以下の同じルールを尊重する社会に生きる者同士だからこそじゃないのか。他に何がある?というようなものだったと思うが、これには、かなり痺れた。近頃わが国では、やたらとコンプライアンスという言葉が叫ばれるのと裏腹に、違法でさえなければ何をやっても構わないと言わんばかりの輩やホフマンのように「ルールなんか、どうだっていいんだ」とか、法理を無視した身勝手な解釈を得意気に繰り広げたりする、基本法と特別法と一般法との区別もついていない輩があまりに目立つからなのかもしれない。法治国家から市場治国家へと変えることが、小泉改革に端を発する一連の流れが企図したことだったのかと、どうにも荒みを感じることの多い世相に近年は辟易としている。自分自身がそう上等でもないのに言うのも何だが、人間の質がグローバルに途轍もなく劣化してきているような気がしてならない。市場万能主義が引き起こしたものだという気がして仕方がない。

 そのようなこともあってか、コーエン兄弟の参加した脚本の造形したソ連スパイのルドルフ・アベルの人物像がなかなか興味深く、それを実に味わい深く見事に演じたマーク・ライランスが、とても印象深い作品だったように思う。父親からこの男を見習えと教えられた、目立った特長の見受けられなかった人物“standing man”の不屈をドノヴァンに見い出し、抑制した静かな敬愛を肖像画とともに贈る男の肚の据わりように痺れた。

 そして、実話にインスパイアされた物語という本作がどこまで史実に沿っているのか、興味深く思った。ベースではなくインスパイアだから、相当に脚色されているはずだ。映画愛好家の友人が『007 スペクター』を観てスパイ映画は、国家を描けば歴史がわかり、人を描けば厚い人間ドラマが作れますと書いていた映画日記に対して別の友人が映画は、本当に時代に敏感ですね。だからこそ、面白いとコメントしていたような観点から、本作の作り手たちが今なぜドノヴァンのような弁護士を造形したのか、を考えると、中国と相並ぶ強欲資本主義の先端を走り、東西の格差社会の雄として君臨しているアメリカの抱えている問題の深さが偲ばれるようで興味深かった。

 作られたばかりの“ベルリンの壁”を乗り越えようとして即座に射殺される東独の若者たちの姿を目撃して衝撃を受けていたドノヴァンが、無事に務めを果たして帰ったニューヨークで、同じように電車内から、金網塀を乗り越えて遊んでいる子供たちの姿を目撃するカットが効いていた。こういうところが“芸”だと思う。そういうことにも充分以上に目配りの利いていた作品だ。なかなか大したものだ。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20160112
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/16011001-2/
by ヤマ

'16. 1. 8. TOHOシネマズ6



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