『自転車泥棒』(Ladri Di Biciclette)['48]
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ


 かつての自主上映仲間の藤田高知県立美術館長が「高知県立美術館で目指したこと」と題する講演を行うということでちょっと楽しみにしていた上映会だ。

 主催の小夏の映画会の田辺氏によれば、講演企画を持ち込んだ際に、藤田館長から求められて選んだ作品とのことで、実験映画などをよく上映していた自主上映団体ムービークラッシュ出身の館長のセレクトとしては意外に思ったと話していた。

 僕にしてもそうで、作品そのものは今更感のほうが強く、リッチ(ランベルト・マジョラーニ)が幼い息子ブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)を連れて、盗まれた自転車を探してローマの町を回る姿には少々苛立つような気分さえ生じた。だが、十年前の映画日誌90年代が実写劇映画とドキュメンタリー映画の相互乗り入れが際立った時代だったとすれば、00年代が実写映画とアニメーション映画の相互乗り入れの際立つ時代になるのかもと綴ったことの延長で言えば、今や映画表現において、かつてもてはやされたリアリズムというものがすっかり退潮している時代にあって、イタリアのネオレアリズモの秀作を改めて提示することには刺激的なものがある。

 しかし、藤田館長は、いつもそうであるように今なぜ『自転車泥棒』なのかという肝心な部分に一切触れることなく、ただ上映しただけだった。小夏の映画会での上映作品としてのセレクションに説明責任があるわけではないので、それはそれでもいいのだけれども、何だか勿体ないというか不親切極まりない気がした。

 映画を観て意外だったのは、かつて感じたであろう戦後の窮状とか父子関係とかには、ほとんど改めて響いてくるものがなかったのに、「泥棒だ!」と叫ぶ声に町の人々がこぞって反応し、リッチが自転車を盗まれた際には車での追跡にも協力したり、リッチが自転車を盗んだ際には大勢で束になって追いかけていた人々の姿に、警察などへのお任せ主義ではない共同体の構成員として社会の公正を保つ役割を負うというシチズンシップを感じ、それが自ずと身に付いているように映ってきたことだった。イタリアに限ったことではなく、日本でもかつてはそういうものだったような気がするが、今の日本社会では損なわれてきているもののような気がしてならない。

 映画のあとの講演で藤田館長は『自転車泥棒』には一切触れなかったが、ホール事業として展開してきた映画事業やパフォーミングアーツ事業について、海外での芸術見本市への参加状況やアーティスト・イン・レジデンス、国際共同制作を含めたプロデュース活動について、その舞台裏を含め写真映写などと共に語っていた。

 高知県立美術館のパフォーミングアーツ招聘活動は海外見本市でも認知されていて、さまざまな国からの招待が受けられるようになっているようだが、少々気になったのは、そういった活動によって県立美術館及び館長個人がしてきたことや得たものは、よく伝わってきたものの、高知の鑑賞者を含めた地域のアートシーンや日本のアートシーンにそれらの活動がどのようなものをもたらし、どのような状況が育まれているのかといった状況認識とか視座について一切語られることがなかったことだ。

 公金により運営されている公立文化施設の活動としては、その点が実は最も肝心な点であり、前述した小夏の映画会での上映作品の選定理由などとは違って、この肝心な点については、運営責任者としての館長は、説明責任を負っているはずだ。美術館の活動に対する評価委員会による事業評価については、それを気にかけている様子が窺えたが、そんなことよりも最も肝心な点について積極的にアナウンスしていかないと、高知県立美術館は、藤田館長の言っていた“橋本知事が敷いてくれたアームスレングスの原則”に頼ってもいられなくなるときが早晩来かねなくなるような気がした。




推薦テクスト:「映画ありき」より
https://yurikoariki.web.fc2.com/ladridibiciclette.html
by ヤマ

'15.12. 6. 朝日新聞高知総局3F会議室



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