『世界の果ての通学路』(Sur Le Chemin De L'ecole)
監督 パスカル・プリッソン


 チラシに大きく「世界最高峰のフランスドキュメンタリー最新作」とあったものの、オープニングクレジットに「scenario」つまり脚本:マリ=クレール・ジャボイ、パスカル・プリッソンなどと映し出されたので、日本で言われるところの「ドキュメンタリー映画」とは違う代物なのだなと思ったけれど、それからすれば、いくらアンリ・ラングロワ賞やセザール賞でドキュメンタリー賞を受賞しているからと言って、日本では“ドキュメンタリー”などと冠しないほうがいいように思った。

 十三年前に県立美術館が実施した非常に興味深い企画である“空想のシネマテーク”の第1回:「ドキュメンタリーとアバンギャルドにおいて西嶋憲生がレクチャーしてくれたように、元々ドキュメンタリーという言葉は、ジョン・グリアスンが1926年にロバート・フラハティの『モアナ』に対して使った造語であって、当時、このジャンルは現実のアクチュアリティをクリエイティヴにドラマ化する映画のことを意味していたそうだ。

 だから、シナリオがあっても何らおかしいものではなく、本作において映し出された4か国の少年少女の通学路において起こった出来事は、作り手が彼らに取材するなかで“クリエイティヴにドラマ化する”うえで効果的だと考えた逸話なのだろう。僕にとっては、少々仰々しいというか遣り過ぎ感が目立ってむしろ興醒めだったが、“現実のアクチュアリティ”として目を向けた対象そのものは、非常に重要なものだと感じた。それ自体に強いインパクトがあるのだから、たとえ取材のなかで得た話であったにしても、シナリオ作りという点では、却って“現実のアクチュアリティ”を減退させた気がしないでもない。

 画面から窺える通学ぶりからは、チラシでも字幕でも強調されていた「ケニア:片道15km 毎朝 徒歩2時間」「モロッコ:片道22km 毎週 徒歩4時間」「アルゼンチン:片道18km 毎朝 乗馬1時間30分」「インド:片道4km 毎朝 車椅子押し1時間15分」というのが、どうも勘定に合わない様子だったことに対しても、この脚本で描くなら、そのような字幕など入れないほうがいいような気がしてならなかった。

 また、ケニヤのジャクソン(11歳)やモロッコのザヒラ(12歳)、アルゼンチンのカルロス(11歳)、インドのサミュエル(13歳)に対して訊いた「将来の夢」だけを映し出すのではなく、少なくとも、難儀な通学に対する彼らの思いと、それを映画にしてみてどう感じているかを伝えてもらいたかった。

 どうみたって、ケニヤのジャクソンくんと弟のサロメくんが毎時7キロのスピードで走り抜けてはおらず、モロッコのザヒラたちが毎週ヒッチハイクをやっているわけではなかろうし、サミュエルの車椅子を押す弟のガブリエルとエマニュエルは、もう車椅子を押して川に入ったりはしていないはずであることが明白なのが興醒めだった。





推薦テクスト:「映画感想*観ているうちが花なのよやめたらそれまでよ」より
https://kutsushitaeiga.wordpress.com/2014/05/10/世界の果ての通学路/
by ヤマ

'15. 7.24. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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