『海と大陸』(Terraferma)
監督 エマヌエーレ・クリアレーゼ


 海の漁ではやっていけなくなり、夏のバカンスの時期に現金収入を得るために、都会から離島に遊びに来る十九、二十歳の若者に一家の居宅を貸し与え、自分たちは隣接するガレージで暮らしながら、給仕やクルージングの提供をして暮らし向きを支えなければならなくなっているイタリアの老漁師一家の物語だった。

 そのことだけでも、痛いほどの社会矛盾を覚えずにはいられないのに、彼ら以上の苦境に見舞われているアフリカ難民を匿うことになる一家の姿を観ながら、いまの日本では、このような立ち位置の劇映画は、もう撮られなくなっている気がしてならなかった。

 国策として、法律で難民救助が禁じられているなかで、彼らを匿うことは、不法入国ほう助という違法行為になることを知らないではないながらも、海に生きる漁師として、目の前で溺れかけているものを助けないのは、海の掟に反する行為だとする老漁師エルネスト(ミンモ・クティッキオ)の信念は、シンプルな人道と良心にかなっていて実に真っ当だ。だから、それを違法行為とするばかりか、難民の入国管理に協力的でないことをもって、クルージング事業許可を正式には得ていないことに付け込んで、船を差し押さえてしまう警察の権力行使のありようが描かれるにつけ、国や法律というものが、本来の目的とは異なるところで運用されるものであることをいやというほど感じさせてくれる作品になっていた気がする。

 エチオピアからジェノバに出稼ぎに来ている夫を頼って、身重の体で幼い息子を連れて密入国してきたサラ(ティムニット・T)が匿われたガレージで密かに産んだ娘を、年端もいかない息子が父親には見せられないと始末しようとする理由を一家の主婦ジュリエッタ(ドナテッラ・フィノッキアーロ)に告げていた場面が痛烈だった。権力を手にした人間というものが、いかに弱者に対して傲慢かを示していたように思うが、人民にとっては“必要悪として存在する権力”をいかに制御できるかという仕組みこそが社会の品質を担保するのだと、改めて思わずにはいられなかった。

 祖父エルネストからも母親ジュリエッタからも、少々頼りなく思われていたようなフィリッポ(フィリッポ・プチッロ)が、その良心のもと、果敢に勇気ある行動に出た最後の場面は、おそらく、トップレスを厭わぬマウラ(マルティーナ・コデカーザ)を夜の海にこっそり誘い出した際に、小舟にまとわりつく難民に転覆させられそうになって彼らの手を打ち据えて払い除け、溺れさせてしまいそうになったことへの呵責が作用していたのだろうが、人が自身の利害を超えて良心を発現させることができるのは、どういうときなのだろう。

 損得や勝ち負けばかりが幅を利かせるようになるなかでの対抗手段に何が成り得るのかというのは、人類永遠の課題なのだろうが、かつては望ましきものだったはずの理想主義という言葉が、今やすっかり侮蔑的に使われるようになっている現在、甚だ悲観的にならざるを得ない。

 それはともかく、チラシにシネスコとのサイズ表記のされている作品の上映がスタンダードになっていたことに憤慨した。主催者によれば、配給会社から提供のあった上映会用ブルーレイのサイズがこれだったとのことだ。主催者が前もって鑑賞したDVDではシネスコだったと言っていたが、それならなおのこと、映画に対する配給会社の良心が問われるような暴挙に呆れ果てた。前に天国の日々』を観たときにも同様のことがあったが、この業界では、どうしてこのようなことがまかり通っているのだろう。

by ヤマ

'15. 1.18. 民権ホール



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