『マダム・イン・ニューヨーク』(English Vinglish)
監督 ガウリ・シンデー


 十五年前にMr.インディアを観たときは、シュリーデーヴィとの表記だったシュリデヴィにすっかり魅了される2時間15分だったように思う。

 美人というよりも、初々しくも臈長けた可愛らしさが何とも言えない表情を見せる四十路マダムのシャシをアラフィフ49歳のシュリデヴィが演じて、胸を打つ素敵な映画だ。豊満でどっしりとした安定感を醸し出す体つきに、気後れや自信のなさを覗かせる小顔の可憐さが、裕福な家庭の専業主婦シャシそのものを体現していて、実に素晴らしかった。

 結婚披露宴でのスピーチは、その場にふさわしく夫婦間の尊敬と対等を訴えていて、それにも大いに得心したけれども、僕の眼には、家族のなかでも夫以上に、我が子である娘から見下されることが最もつらかったように映ってきた。彼女がそのスピーチのなかでも使っていた「ジャッジメンタル」という言葉のエピソードが効いていて、英語がうまく話せないことやジャズさえ知らないことをもって娘から愚かと決めつけられ、小馬鹿にされている様子が切なかった。おそらくは、学校の先生ですらヒンドゥ語を不得手にするくらい英語が公用語として幅を利かせる時代の十代と、戦後間もなく独立してまだ日が浅く敢えて英語の禁じられていた時代に十代を過ごしたシャシとでは、教育の背景が大きく違うことを理解できるような歴史教育が公教育として施されていないのだろう。教育制度のもたらすものの個人に及ぶ影響の大きさを改めて思った。

 だが、そんなことを仮に教えられていなくても、上手く話せないことや言葉を知らないことで人を決めつけるべきではないのは自明のことのはずなのだが、表面的なことで判断したり偏見を抱いたりするのもまた人にはありがちなことで、とりわけ能弁と博識に劣る者は利口でないと見下されがちだ。シャシの利口さは、わずか四週間で見事なスピーチを英語で発表するまでもなく、その抜きん出たラドゥ作りの上手さに既に十分窺えるし、何よりもその所作、表情に滲み出ているからこそ、フランス男のローラン(メーディ・ネブー)は魅了されるのだ。そして、披露宴で振舞う菓子を台無しにした悪戯息子を怒鳴りつけることもなく「ラドゥを作り直すことが自分のやってきたことをやり通すことなんだ」との迷いのない姿が印象的だった。それが決して忍従ではなくて選択であることに紛れのない人となりというものが、愚か者にできようはずのないものであることは、英語が話せようと話せまいと、まさに歴然としている。

 遠い日の記憶になるが、今や三人ともが自分の子供を持つに至っている僕の子供たちがまだ幼いころ、妻よりもいささか言葉に長け、知識の多い僕と比べて妻を軽んじている節が子供たちに窺えたときに、「お父さんが二三日いなくてもキミらは誰も困らないだろう? でも、お母さんが一日いないだけでも、皆ほとほと困るはずだ。一番重要な役目を果たしているのはどっちなのか、はっきりしてるだろ。よく覚えておきなさい」と長男に説教したことがある。そしたら、長男から弟妹に伝わったのか、子供たちからそういう影が消えたことがあったことを思い出した。

 それにしても、シュリデヴィのちょっとした表情やしぐさが、十数年来の友人なのにこの一年あまりやおら音信がなくなってしまった女性に似ていて、すっかり驚いた。シャシと違ってシングルマザーながら、抱えていた悩みまで似通っていて、不可思議に思えるくらい時折みせる気後れや自信のなさまでもそっくりで恐れ入った。シャシがローランに謝辞として送っていた「私に自信を与えてくれてありがとう」というような出会いが訪れていればいいな、と思わせてくれたエンディングがとても気持よかった。自らを信じ愛せる出来事を手に入れられることが、人生においてどれだけ掛け替えのないものなのかが、じんわりと沁み渡ってくるような作品だ。





推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1930879344&owner_id=1095496
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/822676b9758077da26568a1575e26987
by ヤマ

'15. 1.11. あたご劇場



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