『白昼の通り魔』['66]
監督 大島渚


 生きるうえでの標を持てないでいる男たちと生きるうえで標など要しないで生きられる女たちという対照が印象づけられたように感じる作品だった。昭和四十年ごろ、当時の男たちの心象は、概ねそんなところにあったのだろうか。

 村議選での自身のトップ当選を報じる有線放送を耳にしながらシノ(川口小枝)との首吊り心中を敢行していた源治(戸浦六宏)にしても、未遂に終わり気絶しているシノを目撃し犯して以来、密かに婦女暴行を繰り返す“白昼の通り魔”になった英助(佐藤慶)にしても、その暴挙への動機はいずれも不明ながら、生きることに対する何か大きな欠落感を抱えているような印象を残していた気がする。そこに、戦後日本における高度成長期に“経済成長というものにコミットし生きる標となすことが得られなかった者”の姿を認め、新幹線が走り、オバQのソフビ玩具のようなものが巷に溢れる戦後日本社会の高速化と大衆社会化というものが、そういう社会変革に意識の乗り遅れる者に対して大きな欠落感を与えたように受け取るのは少々図式的に過ぎるのかもしれないが、本作に描かれたシノや中学教師マツ子(小山明子)と男たちとの対照が、そういうものを呼び起こしていたように思う。

 共同農場で働きながら心中未遂後の顛末により村を出たシノにしても、婚約者と思しき男の自殺後、暴行犯の英助と結婚したマツ子にしても、その生き様は源治や清治以上に不可解に思える人物像ながら、その生きる力の逞しさというものが印象づけられていて、男たちとの対照のなかで、“生きるうえで標など要しないで生きられる”強靭な女性として炙り出しているように映ってきた。多用される極端なクローズアップが作用した面があるのかもしれないが、そういう意味では、いかにも'60年代らしい観念性に強く彩られた作品だったような気がする。題材そのものは、むしろそういった観念性とは対照的なところにあるもののように感じられるだけに、却って興味深く思われた。

 それにしても、マツ子とは比較にならないくらいの生命力を宿していたシノの受容というか環境適応の力というのは、どこから生まれ出るものなのだろう。ある種の畏怖として作り手のなかにそういう女性観があることが窺えたような気がする。女性の眼には、どのように映るのか興味深い作品だ。

by ヤマ

'14. 9.23. 龍馬の生まれたまち記念館



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>