『白ゆき姫殺人事件』
監督 中村義洋


 湊かなえの原作小説でも最後にアンとダイアナの間の蝋燭の灯は点滅していたのだろうか。告白しか読んでいないものの、湊かなえのイメージじゃなくて意表を突かれてしまった。僕の嫌いな“報道バラエティTV”と“ツィッター族”のムカつくような愚劣さがよく描出されていたが、それ以上に怖いのは、人の記憶と憶測によって加工される証言だと改めて思った。

 記録マニアでもない極普通の人々の証言などというものは殆ど当てにならないことがこれほどに現実感を伴って描き出されると、思い込みや同調気分に任せて易々と懐疑や自省を失ってしまう人間というものが何だか嫌になってくる。そこにさしたる悪意は存在していないことが確実に窺えるだけに恐ろしい。そんななかで灯る蝋燭だからこそ、意表を突かれるし、効くわけだ。

 証言の微妙な整合不整合を細かく拾い出していたところが鮮やかで、谷村夕子(貫地谷しほり)から赤星(綾野剛)への「見落とすな」との忠告が直接的に指していたことが何なのかはともかく、例えば、殺された三木典子(菜々緒)の「そんなこと言ってくれるのは貴女だけよぉ」との酒席での言葉が、満島栄美(小野恵令奈)と狩野里沙子(蓮佛美沙子)の証言では、それぞれ証言者に向けられたものとなっていたり、三人の証言に出てきた「男の胃袋を掴め」との言葉が本当に元々は前谷みのり(谷村美月)のものだったのかどうかも定かではなかったりするところがなかなか辛辣だ。

 それは話し言葉での証言ではなく、文章にしたものであっても同じことで、城野美姫(井上真央)の書き綴ったものが細部まで事実そのものかどうか、保証の限りではない。そのことを仄めかしていたように思える篠山聡史(金子ノブアキ)と城野美姫の関係における“足の指の間”の件など、細部が実にしたたかな作品である点は、映画化作品以上に原作の備えているもののような気がした。映画化作品は、きっと原作よりもずっと嚥下しやすい調理が施されているに違いない。だが、それこそが後味のいい中村義洋作品の持ち味だし、好もしさだという気がする。

 それにしても、女性同士の底意地に窺える厄介な競り合いと男どもの底の浅い脳天気なさもしさには、呆れつつも身につまされた。赤星も篠山もろくなものじゃなかったが、とりわけ美姫の父親(ダンカン)が情けなかった。それだけに同じ中村監督作品のゴールデンスランバーでの雅春の父 一平(伊東四朗)のかっこよさが思い出された。

 狩野里沙子の悪意は、三木典子への憧れと彼女からの無視によって引き裂かれたもののように感じられたのだが、死亡した三木典子の姿が客観カメラとして映し出された部分は全くなく、その総てが証言者たちの目に映ったものでしかなかった。里沙子の語る部分においてのみ嫌な女だけではないものが窺えたのだが、それは自身への嫌疑を避けるための虚言にすぎないだけだったのだろうか。誰の言葉が嘘で、誰の言葉が本当なのか、おそらく細部の細部に至るまで全てが事実どおりの証言をしていた人物は唯の一人もいないのだろう。人の証言というものはそういうものだ。

 おりしも袴田事件の再審請求が半世紀近くを経て認められるという画期的な地裁判断が出されたと報じられたばかりだが、冤罪というものが問われ続けるのも、真実真相というものを突きとめることが至難というか、絶対的真実などというものは存在し得なくて、関わった人それぞれにとっての真実があるなかで、紛れようのない“事実”の確認というものが各自の抱く真実によって攪乱され遠ざけられる現実から生じているような気がする。それから言えば、三木典子の実像などというものは、実は存在しないということだ。

 作劇的には、窃盗容疑で逮捕されたとの里沙子の証言がなにゆえ三木典子の殺害にまで及び、また、どのような状況で導かれたものだったかという点に全く触れずに処理されている点が実に巧妙なのだが、それゆえの引っ掛かりも生じた。原作ではどのように処理されていたのだろう。




推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より
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推薦テクスト:「映画通信」より
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推薦テクスト:「超兄貴ざんすさんmixi」より
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by ヤマ

'14. 3.31. TOHOシネマズ4



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