『共喰い』を読んで
田中慎弥 著<集英社>


 ちょっと中上健次的な、いささかアナクロな匂いのする血の物語なればこそ、脚本の荒井晴彦が敢えて“昭和”を印象付け、平成の時代には、もう似つかわしくないような物語だとして脚本化しているような気がした映画化作品共喰いは、僕にはあまり響いてこなかったのだが、原作を読むと、なおさらに妙味が乏しく、どうして本作が芥川賞を受賞し、早々と映画化されるほどに人々を惹きつけたのか全く分からなかった。

 悪い冗談じゃないかと思いながら観た“吉行淳之介の文庫本を読みながらのマスターベーション場面”は、さすがに原作にはなかったが、原作よりも映画化作品のほうがまだしもという印象だった。マジック・マイクで、でかチン・リッチーのシルエットで映ったナニを観て思い出した『共喰い』の篠垣円(光石研)の巨根シルエットの場面は、原作では単に…父の下半身だけが、一階の天井と階段の手摺の間から見えた。父の呼吸に合せて、まだ硬度を保って水平に突き出されている赤茶色の性器が揺れた。(P20)となっていた。セックスの最中に女を殴らないと満足できず、息子の付き合っている千種を暴行した後、訪れた息子に向かって…ほんとは琴子がよかったんじゃけどよ遠馬、ほじゃけど、お前も分ろうが、ああ? 我慢出来ん時は、誰でもよかろうが。割れ目じゃったらなんでもよかろうが。お前、あの子、まだ殴っちょらんそか。(P62)などと嘯く父親と、そういう父親の性癖を継いでいるかもしれないことに怯えつつ、逃れられないと思っている息子の物語から僕に響いてくるものが何もなかった。父親はもとより、電話口で首絞めたこと許してくれんでもええけえ、するだけしてくれんか? 頑張って痛うないようにするけえ、と言ってしまったために、あんた死んでくれん? と一言残して切られてからは、なんのきっかけもなくなってしまい、結果、風呂場から川へ毎日精液を流し込むことになった。父や琴子さんに邪魔される心配が一番少ない場所だったが、セックスと同じ真っ裸なのに、千種はいなかった。(P39)などという青年にシンパシーを呼び起こされる部分は、皆無だ。

 昭和六十三年に十七歳の誕生日を迎えていた遠馬は、僕のひと回り下の歳になるわけだが、作品世界に立ち込めていた昭和色は、とても昭和最後の年とは思えない感じだ。作品のモチーフは、早々に熱が冷め切らずに、どこかに残っている。風呂場で水を浴びるが、全身を透明な道糸に巻かれた鰻が頭から消えない。顔の傷口から出てきた汚れが、自分の中に流れ込んでくる気がする。性器を握る。鰻の傷口に押し込むつもりで指を使う。すると急激に硬くなり、今度は性器そのものが鰻で、鰻が自分の傷口に潜り込んでもがき、崩れた鰻の頭と千種と琴子さんが恐ろしい速度で現れては入れ替わり、混じり合い、充満する血が網膜になって広がり、何もかもを捕えようとし、しかも自分の血の網を突き破ろうとするのも自分自身なので、破ったと思うとまた血にまとわりつかれ、いきり立つところを指で押さえつけ、父に首を絞められる琴子さんがくっきりと目の前に現れて、終りだった。 もう一度水を浴びた。飛び散った灰白色の滴が溶けて排水孔に集まり、川へ流れ込んでいった。(P30)として率直に記されていたように思う。


 併せて収録されていた『第三紀層の魚』では、高校生ではなく(来年四十歳になる)母と、曾祖父や祖母もつながってない、自分は両方とつながっている、となんとなく考えている(P107)、六年前に父親を亡くした小学生の信道が主人公で、ウナギではなく釣れないチヌの話になっていたのだが、こちらの作品も大して響いてこなかった。田中慎弥は、どうやら僕とは相性の悪い作家のようだ。
by ヤマ

'14. 9. 3. 集英社単行本



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