『髪結いの亭主』(Le Mari De La Coiffeuse)
監督 パトリス・ルコント


 物語の大半を彩るユーモラスでフェティシズムの濃厚な、独特のリズムとテンポで奏でられる官能性に身を委ねる心地よさを堪能していたら、ラスト・シーンで、それまでは登場人物と同じ高さの目線しか取らなかったカメラが床屋の天井から座っている二人の男を真下に見下ろすアングルに変わった。その時、真上から映し取られた小さな床屋の一室が何故か地球を表わしているように感じられた。どうしてそんなふうに感じたのだろう、それを問い直し、映画をもう一度辿ってみるところから、この作品と僕との本当の出会いが始まった。

 どうしてラスト・シーンがアントワーヌ独りではなくて、しかもそこに初めて登場する客が必要なのだろう。彼ら二人に支配的なのは、大きな喪失感と小さな共通点。直前に交わされる「アラビック・ダンス」の共有は、とても象徴的だ。こんな変な踊り方を身につけて独特の舞いを舞うのがアントワーヌだけではないのなら、ここで言う自己流の踊り方というのは、単なる踊りではなく、人生の生き方を意味しているのではなかろうか。そう言えば、昨年観たジャック・リヴェットの『彼女たちの舞台』で、フランス語の舞台には所謂ステージという意味に加えて、人生という意味があるらしいことを知ったことを思い出す。人は皆そうしてそれぞれが密やかに自己流の踊り方を身につけ、自分らしく踊ることにてだれてくる。しかし、人の生は、踊り方を身につけるだけで全うできるものではない。人が生き生きとしているのは、命の躍動感の源すなわちエロスを得ている時なのである。この作品のなかでマチルドが体現しているものは、女性であることや豊かな官能性ということ以上に、人の生の糧となるエロスの象徴なのだと思う。ルコント監督は、そういう意味でのエロスを意図しているからこそ、エロスの対語であるタナトスにも作品のなかできちんと言及している。インテリらしくない風貌の二人連れの男性客の観念的な議論のなかに死を巡る話題が登場し、その時にだけアントワーヌに見解を求めさせているのは、作り手がそういう意図を持っていることを明確に示している。マチルドがそういう意味でのエロスの象徴として存在するのであれば、彼女が何故自殺をしたのかということは物語的にさして重要なことではなく、死んでしまうこと自体に意味があると思われる。すなわち、それは、現代がエロス喪失の時代だということである。そして、エロスを見失ってしまった人類は、取り戻す術も知らず、失くしたことも直視せず、ただ戻ってくるのを待つしかないでいる。ラスト・シーンで二人の男がマチルドを漫然と待っている姿には、そういったものが投影されていないだろうか。これがアントワーヌ一人であるならば、この話はもっと彼とマチルドの二人の物語に収斂してしまう。ラストで初めての客を登場させたのは、それを避け、上から見下ろす映像の効果を高めるために必要だったのだという気がする。

 しかし、この作品で最も魅力的なのは、きちっとした必然性によって構成された映画のそういった部分ではなく、前半のエロス賛歌の部分のもたらす温かい郷愁が自分の原点と触れてくる感覚である。それがシャンプーとコロンの香りであれ、女性の怒った瞳の輝きであれ、フェティシズムなどと言うと何か異常性欲のように思われがちだが、性的興奮をもたらすものが何に固着したかの違いだけで異常だとか正常だとか規定してどうなるものではない。いかなるものに固着しようとそれを変に抑圧せず、自らに肯定してやるなかで、性的エネルギーは開放され、昇華して、単なるエロティシズムからエロスへと至るのではなかろうか。ルコント監督の語り口は、とても優しく、それでいて説得力に満ちている。だから、彼のフェティシズムには陰りがなく、むしろ健康的ですらある。それを変に抑圧したり、疎外したりするのが大人になることであるとするならば、アントワーヌはそうしなかったからこそ、12歳のまま大人になった人と言われるし、また、エロスとの出会いを獲得することができたのである。この作品は、それらのことを寓意に満ちた神話的奥深さで以て実にうまく語っていてルコント監督が極めて優れた作家性を持っていることをよく表わしている。

by ヤマ

'92. 6.10. 県民文化ホール・グリーン



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